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論点⑧ 三位一体論の考察-最大の異端論争

  • 2020年10月17日
  • 読了時間: 13分

更新日:3月2日

🔷聖書の知識51 論点⑧-三位一体論の考察-最大の異端論争

あなたがたは行って、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施しなさい(マタイ28.19)


今回考察する「三位一体論」は、古代教父時代において、最も激しい異端との戦いの中で確立されていきました。即ち、正統派のアナタシウス派(ニケーヤ派)は、ニケーヤ会議(325年)でアリウス派を、エフェソス公会議(431年)でネストリウス派を、カルケドン会議(451年)で単性論を異端として排除し、ここにいたって三位一体論は完結しました。


 「三位一体」(trinity)という用語それ自身は聖書の用語ではなく、古代カルタゴの教父テルトリヌアスによって最初に使われた言葉でしたが、今回、三位一体論について考察いたします。

 

【三位一体論の考察】


「キリスト論」が、イエスが誰か、即ちイエス・キリストの人格や本質、即ちイエス・キリストの神性と人性を論じる神学であるのに対して、「三位一体論」とは神がどのような構造と構成を持った存在なのか、具体的には、父(神)と子(イエス)と聖霊がどのような関係で神を構成しているのかという問題を扱っています。そして、三位一体論は、キリスト論との有機的な関連にあり、キリスト論にかかわる考察から生じてきました。(A・E・マクグラス著『キリスト教神学入門』教文館P469)


<三位一体論とは>


キリスト教の三位一体の教義が最終的に確立されたカルケドン公会議(451年)で、「神は唯一の実体であり、父、子、聖霊という3つの位格(人格)を有し、そして父・子・聖霊は各々が神であり、しかも同質で一人の神として存在する」と宣言されました。

即ち、「父と子と聖霊は、それぞれ独立した神であるが、そこに三人の神がいるのではなく、三者は完全に一つとなっており、そこにいるのは一人の神である」(梅本憲二著「やさしいキリスト教神学」P36)というわけであります。

そしてこの三位一体の教義は、聖書の啓示であり奥義であるとされています。


神学者のジョージ・カランツィスは、「聖書は一貫して、神が父なる神、子なる神、聖霊

なる神を証言しており、神が三位一体であることは、キリスト教徒にとっては基本的な信仰告白です」といい、「神が一つであることと、同時に神と子と聖霊が相互に異なっていることを理解しなければなりません」と語っています。(キリスト教神学Q&A教文館P57)

そして、三位一体論は、3人の神がいるという「三神論」ではなく、また神が父と子と聖霊という三役をしている、といった「様態論」も否定されています。また、エホバの証人が主張するような、唯一の真の神は父なる神であり、子と聖霊は神の被造物で、御子は被造物の最初の最良の者という「従属主義」でもないといっています。三位一体論においては、「神は一つの実体(本質substantia)と、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神の本質を一つにする三つの位格(他者と区別される主体、persona)において、永遠に存在する」と言い表されているのです。

救済摂理の経綸においては、天地を創造したのは父なる神、十字架に架けられたのは子なる神(第二位格)、信徒に新たな命を吹き込んだのは聖霊で、神のすべての活動は、同時に、父と子と聖霊の活動であると言われています(経綸的三位一体論)。即ち、唯一の神が、天地創造において父なる神として、救いの経綸において子なる神(イエス・キリスト)として、救いの導きと聖化において聖霊なる神として働くというのです。特に初期キリスト教信徒は、父なる神が天地を創造され、イエス・キリストが救いの業(贖罪)をされ、聖霊が浄め(新生)の働きをされるという、原体験を有していました。


<聖霊の位置づけーカルケドン信条までの道のり>

この、三位一体論は、ニケーヤ公会議(325年)の頃から第1コンスタンティノポリス公会議(381年)の頃にかけて整理され、カルケドン公会議で確立され、カトリック教会、聖公会、プロテスタント、東方諸教会で教義として支持されています。正統派とされるアタナシウス派は、ニケーヤ会議とエフェソス公会議で、「イエス・キリストは神であり人である」という教理が確立されましましたが、次に「聖霊をどう考える」かという新しい間題が加わりました。

信者に癒しや平和を与えるのは、聖霊という形で信者の心に宿るキリストであると考えられました。しかし、聖霊に神性を認めれば、論埋的には多神教となってしまうので、会議後もアリウス派との対立が続きました。

ようやくテオドシウス帝によって381年に召集された第一コンスタンティノープル公会議で、「聖霊の神性」は認められ、「神は父と子と聖霊なる三つの位格(ペルソナ)を持つ、すなわち、父なる神と子なるイエスと聖霊とは各々完全に神であるが、三つの神があるのではなく、存在するのは一つの実体(スブスタンティア)、一つの神である」とされました。これが三位一体説であり、現在に至る基本的な正統の教理とされています。また、この二回の公会議で確定した教義なので、「ニケーア・コンスタンティノポリス信条」といわれています。聖霊の神性が認められたこの三位一体の教理は、4つの世界公同信条(使徒信条・ニカイア信条・アナタシウス信条・カルケドン信条)によって告白されています。

なお、このニケーア・コンスタンティノポリス会議で「フィリオクエ」(聖霊は子からも発する意味)という句が書き加えられ、以後論争をおこしました。フィリオクェ問題とは、正教会では「聖霊は父より発する」とされますが、カトリック教会では「聖霊は父と子より発する」とされる点の相違であります。キリスト教の神学上最大の論争のひとつで、カトリック教会と正教会の分離、いわゆる1054年の大シスマ(東西分裂)の主因となりました。

<三位一体論は一種の信仰告白である>

しかし、三位一体の教理は、極めて理解が難しく、著名な神学者もその難解さを率直に吐露しています。A・E・マクグラスは「三位一体論は、疑いもなくキリスト教神学において最も混乱を招く側面となっており、注意深い議論が必要である」(マクグラス著『キリスト教神学入門』P437)と表明しました

ヘンリー・シーセンは「三位一体の教理は偉大な神秘である。唯一の神でありながら、同時に神格に三位格があるというようなことが、どうしてあり得るだろうか」(ヘンリー・シーセン著『組織神学』聖書図書刊行会P224)と告白し、またアメリカの3代大統領ジェファソンは、「三位一体論は、キリスト教神学の中で最も当惑させられる領域」と述べ、「三位一体論的数学という理解不能な専門用語」とも言っています(マクグラス著「神学のよろこび」P189)。一部のプロテスタント教会においては、16世紀から19世紀にかけて、三位一体論は不合理であるとしたり、信仰者の生活への混乱をもたらすとして批判がなされてきました。  

こうして、三位一体論が難解であることはキリスト教会において自明となっており、三位一体論は「理解する対象ではなく信じる対象としての神秘」とされ、一種の「信仰告白」であります。即ち、この三位一体の教理は、一神教という枠を保持しながらキリストと聖霊の神性を両立しようとする信仰の論理、即ち「信仰的事実」であるというのです。

<異端との対比>

前記の難解な三位一体論がどういう教理かを理解するために、三位一体論を批判する主張(異端)と対比することより明確になると思われます。以下、異端とされた教理を簡単に見ていきます。古代においては、アリウス派、ネストリウス派、単性論、現代では、エホバの証人、モルモン教、世界平和統一家庭連合(統一教会)、ユニテリアン、クリスチャン・サイエンス、イエス之御霊教会、キリストの幕屋、等の諸教派は三位一体論を否定しています。無論、ユダヤ教、イスラム教はキリスト教の三位一体の神を多神教と批判しています。


アレクサンドリアの司祭アリウス(250頃~336頃)が唱えた説である「アリウス派」は、キリストは神性的存在であるが神と同一ではなく「被造物」としました。つまり「キリストは、神ではなく被造物たる人間であり、神よりも劣る」という教理です。しかし前記の通り、この考え方は三位一体論の否定に繋がり、325年のニケーヤ公会議で異端とされました。以後、北方のゲルマン人に布教されていきました。

一方、「ネストリウス派」はイエスの両性を認めますが、「位格は神格と人格の二つの位格に分離される」とし、「イエスの神性は受肉によって人性に統合された」と考えます。そのため、人性においてイエスを生んだ母マリアは単に人間の子を生んだだけなので、「神の母」と呼ぶことを否定し「キリストの母」と呼びました。このネストリウス派もエフェソス公会議(431年)で異端とされ、以後、ペルシャ帝国、中央アジア、モンゴル、中国に伝わりました。中国では「景教」と呼ばれ、最澄や空海にも影響を与えたと言われています。

更に、「単性論」は、「キリストの人性は二つの性からなるが、受肉による合一以後、人性は神性に融合し摂取され単一の神性人になった」とするもので、カルケドン公会議で異端とされました。この単性派は非カルケドン派と呼ばれ、シリア正教会、アルメニア教会、コプト正教会、エチオピア正教会などが属しています。

現代の三大異端の一つである「エホバの証人」は、聖書に三位一体という言葉はなく、三位一体の教理は非聖書的でバビロン的な慣習だと批判しました。神の唯一性を強調し、位格について一位格であり、本性についても一性であるとしています。そしてキリストは、エホバによって最初に創造された「被造物」(大天使ミカエル)とし、聖霊は「非人格的な神の働き・活動力」としました。

また「モルモン教」は、神は以前骨肉を持つ人間であったとし、肉体を持つ天の父なる神と、その長子をイエス・キリストとし、イエスをキリストと証明する聖霊を信じています。父なる神とイエス・キリストと聖霊はそれぞれ別個の存在であって、人類の救いという目的のために常に一致して事をなすとされています。即ち、父・子・聖霊が、それぞれ人格神であることは認めていますが、それぞれ別々の神とし、3つの人格が同質一体であることを否定し(三位一体論の否定)、多神教に近い神観を持っています。

また前記した通り、三神論、態様論、従属説は正統的な三位一体論から異端的教理とされて斥けられています。

【三位一体論に関する原理観

三位一体の神の聖書的根拠として、創世記1章1節の神「エロヒム」が複数型であり、神の内の複数性を示唆するとし、また「父、子、聖霊の名によるバプテスマ」(マタイ28.19)、「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わり」(2コリント13.13)と明記されていることなどを挙げていますが、三位一体という言葉自体は聖書にはありません。また、人間マリアから生まれたナザレの大工の息子イエスを神とするのは、理性に照らしていかにも受け入れがたいものがあるというのです。

結局、三位一体論の問題点は、神・イエス・聖霊の関係を、「本来三者の関係性と見るべきところ、実体と見たところにある」と言えるでしょう。三者を実体的な関係とし、イエスと聖霊を神と同一視したことで、アリアス派やユダヤ教やイスラム教などからも多神教ではないかとの批判を浴びました。

原理は、神は自体の中に性相と形状(そしてその属性としての陽性と陰性)の両性を持ち、それが統合された存在(中和的主体)としていまし給うとしています。これは神自体の構造を示したものであり、性相的存在、形状的存在、そして中和的主体としての存在という三位一体の構造になっているので、その意味では正に三位一体の神といえなくもありません。

この神の三位構造は、神が自体内の男性性相(性相)と女性性相(形状)が一体となった「父母」という神概念によって表され、多神性は退けられて神の唯一性は維持できるというのです。神は「天の父母」であり唯一の神であるというのです。そしてこれは神自体の構造を示したものですが、このような構造を持った「父母なる神」が、その神の実体対象として創造されたのが宇宙であり、その中心たる人間であります。

個性を完成した人間は、男女が結ばれて夫婦となり家庭を形成いたします。そして「家庭」は、神を中心として、夫、妻、子がまさに三位一体となって四位基台(神・夫・妻・子)を形成しています。その場合の神とは神の愛と真理を中心とした目に見えない性相的中心という意味であります。同様に、イエス、聖霊、信徒は、目に見えない神を中心として、イエスと聖霊と信徒が一体となって四位基台を意味しています。その意味で、神を中心に「イエス、聖霊、信徒はまさに三位一体」と言えるでしょう。

上記の原理観に対して、神学者の尾形守氏は、「作りごとの創造原理によって、三位一体論を勝手に定義している。この教義は、キリスト教の三位一体の神ではなく、彼らがいう四位基台を構成している三つの関係を表現した用語に過ぎず、平気で三位一体という用語を人間の場合にも使っている」(尾形守著「異端見分けハンドブック」P96)と批判しています。

しかし、神を中心としたイエス、聖霊、信徒の三者を三位一体と表現したことがなぜ問題なのか理解に苦しむところであります。何も三位一体という言葉は、キリスト教の神を表す専売特許ではありません。

我々は「新たに生まれなければならない」(ヨハネ3.3)のであり、新生するためには生み直して下さる父母がいなければなりません。そのために、真の父即ち後のアダム(1コリント15.45)として来られたイエスと、真の母たる聖霊によって新生されなければなならないというのです。

「霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって新たな命が注入され、新しい霊的自我に重生されるのである。これを霊的重生という」(原理講論P266)とある通り、イエスと聖霊とは、神を中心とする霊的な父母として、信徒を霊的に新生させるというのです。文鮮明先生は、聖霊について「サライ、リベカ、ラケルの総合霊」と言われたことがあります。

しかし、イエスが十字架に架けられることによって、サタンの侵害を受けた肉体には、なお原罪が残され、その十字架の贖罪は「霊的新生」に留まったというのです。即ち実体的(霊肉)新生は、再臨によってなされるのであり、ここに「見よ、わたしはすぐに来る」(ヨハネ黙示録22.12)と言われた通り、イエスが再び来なければならない理由があります。

そうして原理講論は次の言葉で締めくくっています。

「ゆえに、イエスは自ら神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉共に真の父母となることによって、堕落人間を霊肉共に重生させ、彼らによって原罪を清算させて、神を中心とする実体的な三位一体をつくらせるために再臨されるのである」(講論P268)

この点内村鑑三は、「人の救いは、霊だけではなく、霊と肉とによる救いでなければならず、霊の救済は十字架により成就しましたが、身体の救済は再臨によってなります」と述べ、「基督再臨とは万物の復興である。また聖徒の復活、神政の実現である。人類の希望を総括したもの、それがキリストの再臨である」(関根正雄編著『内村鑑三』)と語っています。

以上、今回はキリスト教の根本教義である三位一体論を考察しました。この教義は伝統的なキリスト教教義の最も重要な柱であると共に、最も理解が困難で多くの批判に晒されてきた教義でもあります。今まで論じてきたように、この三位一体論の問題は、ひとえにイエスと聖霊をその本質において神と同視したことに発すると言わねばなりません。こうしてキリスト教の三位一体論は、キリスト教神学者らの懸命の弁償にも関わらず、「理解不能の信仰的事実」として歴史的に棚上げされてきたのです。

七つの巻物の封印を解き、聖書の奥義を明らかにされる「ユダ族の獅子、ダビデの若枝」の到来を切に待ち望みます。主よ、来たりませ!

なお次回から「神」(第一位格の神)について考察していきます。歴史的な神の類型、神を知る方法、先端科学の神認識、原理の神の特徴などを再認識していきましょう。何故なら、神こそ人間の存在根拠、生命の根源、歴史の主宰者であるからであります。(了)

  

                            牧師・宣教師 吉田宏


*上記絵画:二つの聖三位一体(バルトロメ・エステバン・ムリーリョ画)

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