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宗教改革と対抗宗教改革① ルターの宗教改革



その神の義は福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。(ロマ書1.17)


キリスト教の歴史において、最大の変革と言えば、1517年のマルティン・ルターから事実上始まった宗教改革、即ちプロテスタンティズム(プロテスタント)の誕生と言えるでしょう。そこで今回から数回に渡って、この宗教改革とは何か、プロテスタンティズムとは如何なる思想か、カトリックの対抗宗教改革とは何か、などにについて論じることにいたします。


ちなみにプロテスタンティズムとは、ルターやカルヴァンの宗教改革に始まり、その聖書主義に立つ福音的伝統を受け継いで、そこから発展、分化したキリスト教の思想・神学を総称する言葉です。なお、ルター・カルヴァンから始まった宗教改革を近現代における「第一次宗教改革」とすれば、バプティスト派やピューリタンなどを中心とし、新大陸アメリカで結実していった、いわゆる新プロテスタンティズム運動を「第二次宗教改革」、バルトやプルンナーなどの新正統主義から始まり再臨期の統一思想で結実していく新しいリバイバルは「第三次宗教改革」と言えるでしょう。


そうして、これらの考察の中で、プロテスタントとカトリックの異同を分析し、キリスト教の本質に迫ると共に、その課題をも明らかにしたいと思います。そしてこれらを通して、私たちの信仰の在り方自体を、よりよく見直すヒントになれば幸いです。


以下、「宗教改革の歴史・思想・信仰」、「カトリックの対抗宗教改革」、「新プロテスタンティズムの誕生」「アメリカのピューリタン」について、順次考察していきます。 


【プロテスタントの成立】


2017年は、マルティン・ルターの宗教改革500年記念の年で、特にドイツでは数多くの催しがありました。ルターの宗教改革とその理念は、良くも悪くもその後のキリスト教の運命を変える一大契機になりました。カトリックに対するプロテスタントの誕生です。


それまでカトリックの独壇場だった教理や制度を真っ向から批判するもので、革命的な理念と聖書解釈を提示しました。ある意味でキリスト教根本主義、或いは「原始教会への回帰」であります。この原点回帰であるプロテスタンティズムの信仰の基本は、「絶対的超越者である神をひたすら崇め委ねること」にあります。


しかし、プロテスタントの中でもルターとカルヴァンの主張の違いや教派による違いがあり、カトリックの対抗宗教改革もあります。またルターの改革が教皇支配から諸侯の支配に代わっただけで、本当の意味で信仰の自由が実現した訳ではない、という指摘もあります。新しい宗教改革と霊的覚醒が期待される今、ルターの宗教改革とその理念を分析し再評価すると共に、カトリックや他宗派との対比を通じて聖書解釈の本質に迫ることは大いに意義のあることだと思われます。そこで先ず、宗教改革の事実上の口火を切ったマルティン・ルターの人生と信仰から見ていくことにいたします。


【ルターの略歴と回心・召命】

以下の項で、マルティン・ルター(Martin Luther 1483 年11月10日 ~ 1546年2月18日)の生い立ちから死去までの出来事、及び宗教改革の思想と歴史を概観することにしたいと思います。


<ルターの誕生>


本項冒頭のロマ書1章17節はルターの回心聖句であり、宗教改革の口火となった一節であります。


プロテスタンティズムの思想的源流となったルターは、1483年11月10日、鉱山業に従事していた父ハンス・ルダーと母マルガレータの次男として、ドイツのザクセン地方の小村アイスレーベンで生まれました。父ハンスは、銅鉱夫から身を起こし、銅精錬を経営する実業家になりました。精悍で頑固そうなルターの肖像画は、正に父譲りでした。ハンスは教育熱心で、ルターに幼少期からラテン語、論理学、修辞学などを学ばせました。1501年エルフルト大学に入ったルターは、1502年に学士、1505年に修士の学位をとり、アリストテレスの自然科学、数学、天文学、政治学、倫理学、修辞学などを習得しました。修士になって法律学を選考し、父母からも世俗的な成功を期待され、それは順調かにみえました。

<運命の召命ー落雷の恐怖>


それは1505年、ルターが22歳の時のことでした。家を出てエルフルトへ向かったルターは、エアフルト近郊のシュトッテルンハイムの草原で「激しい雷鳴」に遭遇することになります。雷鳴と共に稲妻が走り、彼を地面になぎ倒しました。落雷の恐怖に死すら予感したルターは思わず「聖アンナ様、お助けください。私は修道士になります!」と叫んだといいます。


その頃、聖人を通して神に祈ることはよく行われており、アンナは聖母マリアの母で出産と鉱業労働者の守護聖人と考えられていました。パウロも強い聖霊に打たれて回心することになるのですが(使途行伝9.3)、パウロ、ルター両者に共通するのは、神からの一方的な「不可抗力的、宿命的な召命」であります。そしてこの落雷は正に神の召命宣言でありました。ルターはこの半ば強制された誓いを後悔したといいますが、それでも修道院入るという決心を変えなかったのは、この決心の動機が雷鳴による死の恐怖だったにせよ、また突発的な霊感であったにせよ、これが「神の召命」であったことを堅く信じたからに他なりません。


修道院に入るようになった ルターが雷に打たれたシュトッテルンハイムの野中には「歴史の転換点」と刻まれた石碑が立ち、この石碑は、この落雷の一撃がルターの生涯を変えただけでなく、西欧社会のあり方をも根本から変えたことを物語っています。(徳善義和著『マルティン・ルター』岩波新書P18)


かくして法学の道を捨て、厳格さで知られるアウグスチヌス修道院に入ることになりました。勿論世俗的な成功を望んでいたルターの両親は大反対でしたが、しかしルターは、両親の願いを聞き入れるどころか父親の同意すら得ずに大学を離れ、フランシスコ会系列修道会である「聖アウグスチヌス修道会」に入ったのです。


<修道院生活とその限界>


ルターは20才まで聖書を見たこともありませんでしたが、エルフルト大学の図書館で初めて手にしたといいます。このようにルターが聖書を手にしたのは修道院に入る少し前でしたが、しかし聖書は不思議にも彼の大変気に入る書物となったというのです。アウグスチヌス修道会では、ひたすら「ラテン語聖書を暗記するまで読む」という生活です。朝3時から夜9時まで7回の定時祈祷で、毎日詩篇50篇を唱えるのが日課でした。


6世紀のベネディクツス修道院以来、「貞潔・清貧・服従」の誓いを立て、「祈り且つ働け」をモットーに、日に二度の雑穀とおかゆの粗末な食事と祈りの生活です。もともと禁欲的なルターは、修道院で「誰よりも厳格な修行生活」を送りました。


しかし厳しい修道生活で、「いかに欠点のない修道をしても、罪人である不安を感じ、神が満足される確信を持てなかった」と告白しました。修道院で度々行った「告解」は女性の問題ではなく、真剣な魂の問題であり、その誘惑だったといいます。ルターは、「修道院時代、私はほとんど情欲を感じなかったし女性も見なかった。ただ、肉体の自然な欲求のための夢精を経験したことはあった」と述懐しています(『ルター自伝』新教新書P51)。この点は、情欲との戦いに苦悩したアウグスティヌスとの大きな違いであります。


それに修道生活は自己満足と傲慢の温床ともなり、結局「平安は得られず」、自己の信仰と当時の教会のあり方の乖離に悩む日々となりました。これは比叡山で修行した親鸞の悩みと相似しています。そうして聖書勉強への集中と修道院での極限の修業の末、結局「人間の努力によっては神の怒りから解放されず、神の救い(義)には至れない」との確信に至っていきました。「信仰義認」という信仰原理は、この確信と同時に芽生えたものです。


<信仰義認の発見-塔の体験の回心>  


1507年(24歳)、司祭に叙階されたルターは、修道院から特に神学の研究をすることを命じられ、聖書研究が本格的に始まりました。そして1512年(29才)、神学博士になると同時にヴィッテンベルク大学の聖書学の教授となり、最初に行った講義は、聖書の「詩篇」と「ロマ書」でした。


彼は、ここでアリストテレスの手法を適用した「スコラ学的なアプローチの限界」を感じ、「神を理性で捉えることは困難」であるという理解に達したといいます。ちなみに、スコラ学とは、カトリック的な信仰を受け入れた上で、それをプラトンやアリストテレス哲学の助けを借りて理解しようとする学問的努力と言われています。つまり「宗教的真理と理性的認識を補完的な調和に至らせる」ことに目標を置いた学問であります。

その後、エルフルト大学で教えたり、修道会の使命を帯びてローマへ旅行するなどしましたが(ローマでは聖職者の堕落を目にします)、最終的にヴィッテンベルクに戻り、そこで神学の聖書注解の講座を受け持つことになりました。そしてその頃からルターの心を捉えて離さなかったのは、パウロのロマ書に出る「神の義」の思想でした。「いくら禁欲的な生活をして罪を犯さないよう努力し、できうる限りの善行を行ったとしても、神の前で自分は義である、すなわち無罪を言い渡されたと確実に言うことはできない」との現実を直視していたルターは、苦しみ続けました。


そのような内的葛藤の中で、光を受けたように新しい理解が与えられるという経験をすることになります。そこで得た確信は、「人間は善行(業)でなく、信仰によってのみ (sola fide) 義とされる」こと、つまり人間を義、即ち、罪なきもの、正しいものであることとされるのは、すべて神が与える「恩寵の賜物」である、そしてこの義を受動的に受け入れるという理解に達し、ようやく心の平安を得ることができたと言うのです。


ルターは、ロマ書をずっと味読し続けていましたが、屋外トイレにいるときに、遂に回心の瞬間が訪れ、「聖霊は、わたしが用をたしているとき、この秘儀を授けたもうた」と述懐しました。このときはじめて、「義人は信仰によって生きる」ということばの意味を理解しというのです。ルターは「このようにして、私は全く生まれ変わって、開かれた門を通ってパラダイスそのものの中に入ったように感じた」(ルター選集2 ) と述べ、これがルターがキリスト教を開眼した「塔の体験」であります。


ルターにとってこれは、今まで教会が築いてきた、秘跡重視で教条主義的なキリスト教というヒエラルヒーに対する完全な答えだったのです。「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」(ロマ3.28)と聖書ははっきりいっている、「善い行いをしているという事実は、救われるという意識の外的な確認にすぎない」と...。


即ち、ここでルターが得た神学的発想こそ信仰義認の教理であります。「主よ、御許に身を寄せます。恵みの御業によって私を助けてください」(詩篇31.1)とある通り、怒り・裁き・罰の脈絡から、恵み・恩寵・救いの意味への転換をもたらしました。そして、「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」(ロマ1.17)の聖句が「塔の体験」と呼ばれるパウロの回心聖句となりました。ちなみに「塔」とはヴィッテンベルクの修道院の中でルターが与えられた個室のあった塔のことです。


【ルターの宗教改革】


次に、ルターの宗教改革の背景、発端、展開、影響について、その流れを見ていきます。


<カトリックの腐敗ー時代背景>


当時、カトリック教会は、聖職の売買や賄賂、聖職者の不倫を含む不道徳、強権的な教会運営、霊的閉塞感、など多くの問題を抱え腐敗が進んでいました。また、ドイツでは諸侯の勢力が強く、神聖ローマ帝国といっても名ばかりで、その統制力は弱く群雄割拠の状況にありました。特にドイツ地域は、カトリックにとってその間隙をぬって多くの金銭を巻上げるよき対象になっていたのです。ドイツが「ローマの牝牛」(乳を出すもの)と揶揄されたのはその象徴です。


また中世自体がそれなりに一種の成熟を経験し、その成熟が様々な制度疲労を起こしていたとも言えるでしょう。ともかく、このような時代背景が宗教改革の前提にありました。


<贖宥状の販売>

そのような背景の中で、ローマ教皇レオ10世は、サン・ピエトロ大聖堂の修復のためにという名目で「贖宥状」(免罪符)の販売を始めたのです。ドイツで売りさばいていたマインツ大司教アルプレヒト・フォン・ブランデンブルクは、「贖宥状を買ったものは、天国行きが教会によって保証される」と宣伝しました。


贖宥状自体は、これまでも十字軍の費用や教会施設の建設のために出されていましたが、結局この贖宥状こそ宗教改革の直接的な導火線となりました。


<贖宥行為の濫用>


義化の問題に悩みぬいたルターにとって、教会の「贖宥状」によって罪の償いが軽減され天国行きが保証されるという文句は、聖書的根拠がないだけでなく、「人間が善行によって義となる」という考えそのものであると思われ、いわゆる「塔の体験」に違背していました。


また、贖宥状の販売で宣伝されていた「贖宥状を買うことで、煉獄の霊魂の罪の償いが行える」という謳い文句は、煉獄の霊魂が本来罪の許しに必要な「悔い改めや秘跡の授与」なしに贖宥状の購入のみによって償いが軽減されるというもので、ルターはこれらを「贖宥行為の濫用」であると感じたのです。贖宥状を購入することが天国行きのキップになるとは、あまりに安易過ぎると...。


本来キリスト教(カトリック教会)では、洗礼によって原罪やそれまで犯してきた罪は清算されるが、洗礼を受けた後に犯した罪は、告白(告解)によってゆるされるとし、罪が許されるために必要なプロセスは三段階からなっています。先ず、犯した罪を悔いて反省すること(痛悔)、次に司祭に罪を告白してゆるしを得ること(告白)、最後に罪のゆるしに見合った償いをすること(償い)の三段階で、カトリックではこのプロセスによって、初めて罪が完全に償われると考えられていました。


またキリスト教に限らず、仏教など世界の多くの宗教に、宗教的に救済を得たいなら善行や功徳を積まなくてはならないとする「因果応報」や「積善説」という考え方があります。カトリック教会は、救われたい人間の自由意思が救済のプロセスに重要な役割を果たすとする「自由意思説」に基づいた救済観を認め、教会が行う施しや聖堂の改修など、教会の活動を補助するために金銭を出すことを救済への近道として奨励しました。


贖宥状は、金持ちと貧しい人によって段階的に値段が決められており、ドミニコ会の修道士で免罪符販売の先頭に立っていたテッツェルの言葉としてよく引用される「贖宥状を購入してコインが箱にチャリンと音を立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がる」という言葉は、この贖宥状の実情をよく表しています。しかし、ルターはこれらを聖書に根拠がない贖宥行為の濫用だと主張しました。


<95ヶ条の提題>


こうしてルターは、1517年10月31日、マインツ大司教アルブレヒトの指導要綱には「贖宥行為の濫用がみられる」との書簡を送りましたが、これこそがヴィッテンブルグ城教会の北扉に貼り出されたと言われる「95ヶ条の提題」であります。実際、アルブレヒトにはフッガー家から巨額の借金を抱え、一方、パチカンに賄賂を届けなければならない事情があったと言われています。


ヴィッテンブルグ城教会      95カ条の提題を教会の門に貼り出すルター  


しかしこの提題は、一般庶民には読めないラテン語で書かれていたことから、ルターがこれを純粋に神学的な問題として考えていたことが分ります。即ち、「贖宥が信仰ではなく業による救いにつながること」、「聖書に根拠がないこと」、「贖宥行為の濫用がみられること」「悔い改めを経ずに救いが金で買えること」を神学的視点から問題にしたのです。


ちなみに95ヶ条の提題第1は「私たちの主であり、また教師であるイエス・キリストが『悔い改めのサクラメントを受けよ』と宣したとき、イエス・キリストは『信じる者たちの生涯のすべてが悔い改めである』ことを願った」として、先ず悔い改めとその赦しについて述べた上、第27では「お金がチャリンと投げ入れらるや否や、(煉獄から)魂が飛び立つと教える人たちは、神の教えではなく人間的な教えを宣べ伝えている」と指摘し、第36では「真に痛悔したキリスト者であれば、贖宥の証明書なしでも、その人が当然得ることができるはずの罪と罪過からの十分な赦しを得る」と明言しました。


もともと神学問題の提起を行ったに過ぎないルターでしたが、その意図とは無関係に意外な展開を辿り、にわかにローマ教皇への挑戦者という意味合いを持たされていくことになっていきます。いずれにせよこの質問状は大きな反響をよび、これが世界史の大きな転換となった宗教改革のはじまりとなりました。当初は贖宥状の発行を批判したのであって、ローマ教皇や教会の存在、制度、その権威そのものを否定したのではありませんでした。しかし、論争が激化する過程で、ルターの頑固で短気な性格とも相俟って、教会批判そのものに向かわざるを得なくなっていきました


<意外な展開>


当初ルターが目指したのは、教会の改善(リフォーム)であって改革(リボリュウション)ではありませんでした。プロテスタントという一つの宗派ではなく、カトリック内部において「抗議するもの」でした。しかし、ことは予期せぬ展開をはじめ、もはやルターの思惑を離れひとり歩きをしていきました。1918年から21年にかけて、正に嵐の中と言ってよく、反対者からの避難と誹謗中傷、教皇庁からの圧力と脅迫、そして3つの事件が身に降りかかります。1818年のアウグスブルグ尋問、1819年のライプツィヒ討論、そして1521年のウオルムス国会です。


当初、ローマ教皇庁はこれを大きな問題とは考えず、聖アウグスチノ修道会に対し、ハイデルベルクでの総会でルターを諭して穏便に解決するよう命じました。しかし1518年4月のハイデルベルクでの総会で、ルターは逆に自説を熱く語り、1518年10月の「アウクスブルクでの審問」でも、教皇使節トマス・カイエタヌ枢機卿が免償の問題に対するルターの疑義の撤回を求めたのに対し、「聖書に明白な根拠がない限りどんなことでも認められない」と反論しました。


そして1519年の「ライプツィヒでの公開討論」で、教会神学者のヨハン・エックの巧妙な誘導にはまって、「ヤン・フスの教えの中にも福音的なものが含まれる」といってしまい、ルターはヤン・フスと同様、異端者としてのレッテルを貼られていくことになります。この討論で、ルターは「エックの罠にはまった」と言われました。ちなみにヤン・フス (1370頃〜1415)とは、チェコボヘミアの宗教改革者で、プラハ大学神学教授でした。イギリスのジョン・ウィクリフの改革思想に強く共鳴し、聖職者、教会の土地所有、世俗化を厳しく非難しました。結局フスは破門され、火刑に処せられましたが、ルターなどの宗教改革の先駆者と言われています。


このライプツィヒ討論には、メルントンという青年が、ルターの引用した文献から必要な引用箇所を差し出す役として付いていました。メランヒトンは、ギリシャ語に優れ、21才にしてヴィッテンベルク大学の教授を務める秀才でした。ルターが洞察をもって新しい思想を提示していく才能に秀でていたのに対して、メランヒトンはそうした思想を体系立て、ひとつにまとめ上げていく才能に恵まれていました。彼の著作は人文主義の知識人たちに宗教改革の精神を伝える橋渡しになりました(徳善義和著『マルティン・ルター』岩波新書P79)。後述するて「アウクスブルク信仰告白」は、ほとんどメランヒトンがまとめています。


<カトリックとの断絶と3つの文書>


そしてカトリック教会との断絶が決定的となったこのころ、ルターの周囲には賛同者が集まり始め、その中にはフィリップ・メランヒトンやトマス・ミュンツァーなどの姿もありました。また教皇や皇帝の権威に異を唱える諸侯の賛同もありました。


ルターが1520年にあいついで発表した3つの文書、『ドイツ貴族に与える書』、『教会のバビロニア捕囚』、『キリスト者の自由』はその後の宗教改革の方向を定める理論的裏付けになりました。『ドイツ貴族に与える書』では教会の聖職位階制度を否定し、『教会のバビロニア捕囚』では聖書に根拠のない秘跡や慣習を否定し、『キリスト者の自由』では、人間が制度や行いによってではなく信仰によってのみ義とされるという彼の持論が聖書を引用しながら主張されました。


教皇レオ10世は回勅「エクスルゲ・ドミネ」(主よ、立ってください)を発布して、自説のテーゼを撤回しなければ破門するとルターに警告しましたが、ルターはこれを拒絶しました。1520年12月、ルターは回勅と教会文書をヴィッテンベルク市民の面前で焼き、学生たちも教会法典やスコラ神学の書物をその火中に投げ込みました。ついにローマ教皇はルターを異端と断定し、1521年初めに破門としました。


神聖ローマ帝国皇帝のカール5世は、ルターの問題からドイツが解体へ至ることを恐れ、皇帝の立場で教会の論争を収束させようとして「ヴォルムス帝国議会」を召集、ルターを召喚し、その説の放棄を迫りました。しかしここでもルターは自説を曲げず「教皇と公会議の権威を認めない」と公言し、最後に「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。私はここに立つ、神よ、助けたまえ!」と述べたとされています。


カール5世は「帝国追放」の刑を宣言しましたが、密かに脱出したルターは、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世に保護され、「ヴァルトブルク城」にかくまわれることになります。ルターは1522年、そこで「ラテン語の新約聖書のドイツ語訳」を完成し、これによって民衆が聖書を手にし、聖書にもとづく信仰が可能となって、当時普及した「印刷術」も相俟って宗教改革は急速に広がっていきました。


 ヴァルトブルク城     城内に残るルターの部屋   ルター・ドイツ語訳聖書


<農民戦争>


ルターの主張は封建的な支配に苦しんでいた農民にも支持されはじめ、ルターの影響を受けたトマス・ミュンツァーの指導する農民一揆が勃発しました。1524年のドイツ農民戦争です。


ミュンツァーは農奴制の解放などを掲げ、領主や教会を襲撃しましたが、ルターは当初理解を示していたものの、その過激な行動に批判的になり、最後には支持を撤回し、それとともに一揆は鎮圧されました。


<プロテスタントの呼称>


1526年、カール5世は、「シュパイエル帝国議会」で一旦「領封教会体制」を認めましたが、1529年の帝国議会ではカトリック教会の破壊などへの行き過ぎを咎め、一転してカトリック教会の立場に肩を持った布告が行われました。


しかし、ザクセン選帝侯を初めとするルター派諸侯はこれに対し抗議を行い緊張が高まっていきました。この時の抗議を契機に、ルター派諸侯と諸都市は「プロテスタント」(抗議者)と呼ばれるようになり、やがてルター派の総称となっていきました。ただ、プロテスタントと呼ぶより、「福音主義」と呼んだほうが、実体にあっていると言えるでしょう。


<アウクスブルク信仰告白>


1530年に行われた「アウクスブルクの帝国議会」でもカール5世はなお、プロテスタント諸侯との和解の道を模索していました。この議会にはルター自身は法的立場(市民権剥奪)によって参加できませんでしたが、ルターの教理を思想化することに務めた盟友のメランヒトンが参加していました。


この議会においてプロテスタント側は共同して「アウクスブルク信仰告白」を皇帝に提出しました。これはプロテスタントによる初の信仰宣言であり、大部分がメランヒトンの手によると言われています。


ここで、a.三位一体の神を規定したニケーア信条を受け入れること、b.イエスが真の神であり真の人であることを告白すること、c.原罪・懺悔・悔悛について信仰により恵みにより義とされること、d.行いが人を義とするのではなく、信仰からよき行いが必然的に生じること、e.洗礼は救いに必要であること(幼児洗礼を認める)、f.聖餐においてキリストの体と血がパンとぶどう酒と言う形で実在すること(共在説)、g.全信徒は祭司の性格を持つが教会内での説教や聖典の執行は正規の召しを必要とすること、h.神の特別の賜物と恩寵なしには独身生活は難しいこと、i.キリストの再臨があること、などが告白されました。


<アウグスブルクの宗教和議>


1555年、「アウグスブルクの宗教和議」でルター派(プロテスタント)は容認され、カトリックと並ぶ存在になりました。但し、カルヴァン派、ツイングリー派、再洗礼派は認められず、また個人ではなく領封君主に宗教選択権が与えられ、「領封教会体制」が確立することになりました。ルターはその9年前にこの世を去っていましたが、こうして「聖書に書いてあることのみを信仰とする」とのルターの信念は実を結んだのです。


【ルターの業績と影響】    

       

ルターの最大の業績は、何と言っても宗教改革の理念を提示し、宗教改革の口火を切って、カトリックと並ぶプロテスタントの歴史をスタートさせたことですが、宗教改革上の足跡のみならず、ヨーロッパの文化、思想にも大きな影響を与えました。


<著作、聖書の翻訳、賛美歌>


先ず生涯3000点にも登る著作です。前述した『ドイツのキリスト者貴族にあてて』『教会のバビロン捕囚について』『キリスト者の自由について』の宗教改革三大文書の他、『善い行いについて』『ローマの教皇制について』『キリスト教会の改善について』は宗教改革の主要著作といわれています。また信仰教育のために書いた信徒向けの『小教理問答』および教師向けの『大教理問答』があります。


次に、聖書のドイツ語翻訳です。これは近代ドイツ語の成立において重要な役割を果たしたといわれています。1534年にはドイツ語旧約聖書も完成しました。ルターは旧約聖書の諸書の選択において、ヘブル語からギリシャ語に翻訳された「七十人訳聖書」(セプトゥアギンタ)にはあるが「マソラ本文」(ユダヤ教徒によって編纂されたヘブライ語聖書)にないものを、聖書正典ではないと確認して、旧約聖書から排除しています。また、「神はわがやぐら」など自ら賛美歌をつくり「賛美歌の元祖」とも言われています。


<ルター派教会の形成ー近代の扉を開いた神の言葉に生きた人>


キリスト教会の分裂(シスマ)はルターの本来の意図ではありませんでしたが、彼の影響下で「福音主義教会」(ルター派教会)と「アウクスブルク信仰告白」が形成されました。また、聖書をキリスト教の唯一の源泉にしようというルターの波及は、プロテスタント諸教会のみならず、対抗改革を呼び起こしたという意味でカトリック教会にも大きな影響を与えました。


ルターはカルヴァンと違い、決して知性派ではありませんでした。むしろ偉大な霊的な力を持つ人物でした。おそらくルターに関していちばん目立つのは、「祈りの迫力」、「敬虔な修道院での修練」の証でしょう。彼は1日3時間かけて、両手を組み合わせ、開かれた窓に向かって祈るのが好きだったと言われています。祈りについての説教には、驚くほどわかりやすく気取らないものがあり、「祈るとき、わたしに大きなものが宿ります」と言っています。そのことばには確信があふれ、教条的なキリスト教に取って代わる本物のキリスト教として、個人の祈りに重きを置きました。


こうした活動に取り組みながら、ルターは終生ヴィッテンベルク大学における聖書講義を続け、宗教史と思想史、さらには文化史に大きな足跡を残しました。そしてルターの改革はヨーロッパに「近代のはじまりを告げる鐘」となり、その自由の精神は民主主義や資本主義の源泉ともなりました。一方ドイツでは、ナショナリズムに利用されたという指摘もあります。


ルターは、まさに言葉に生きた人でした。聖書を丹念に読むことからはじめて終生「神の言葉に生きた人」でした。こうして1546年2月18日に生まれ故郷のアイスレーベンでこの世を去りました。ルター主義は、ドイツを始め、デンマーク、ノルウエー、スウェーデン、フィンランドでメジャーとなり、アメリカではドイツ系移民を通してルター派教会が広がりました。ルター派教会は、今日、プロテスタントの最古の伝統的な教会として、世界に教会を形成しています。


<ルターの結婚観>


なおルターは、42歳の時に、ルターの支持者であり修道女のカタリーナ・フォン・ボラ(25歳)と結婚して、三男三女6人の子供を設けていますこのようにルターは、結婚したことでプロテスタント教会における教職者、牧師の結婚という伝統をつくったことでも知られます。親鸞も肉食妻帯の禁を打破して妻帯しています。


ルターは当初、キリスト教の禁欲的な理想主義者として、修道者のように神のために結婚しないことをよいものであると認めていましたが、その反面、常に肉体的欲望に悩まされるのなら結婚するべきだと思うようになりました。生物としての本能である性欲を合法的に充足させる「結婚・妻帯」については後年に至って考えを改め、「聖書には聖職者の結婚・妻帯を禁止する明確な規定がない」ので、聖職者(牧師)も特定の女性と結婚しても良いと考えるに至りました。


以上、今回はルターの略歴、宗教改革の背景、発端、展開、影響など、特にマルティン・ルターを中心に考察いたしました。次回は、宗教改革の先駆者、宗教改革の理念と意義について解説致します。(了)

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