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宗教改革と対抗宗教改革② 宗教改革の理念

🔷聖書の知識121 -宗教改革と対抗宗教改革②  宗教改革の理念


前回、ルターの生涯と信仰、並びに宗教改革の流れを概観しましたが、これを踏まえ、今回は「宗教改革の理念」を検証したいと思います。


【宗教改革の先駆者と時代背景】


ルターの宗教改革はプロテスタントを誕生させましたが、実はルターの宗教改革以前に、その先駆者となった神学者、宗教家がいたのです。イギリスのジョン・ウィクリフ、ボヘミアのヤン・フス、そしてサボナローナなどです。


マルティン・ルター、ジャン・カルヴァンに象徴される宗教改革の背景には、前段階として、宗教的、社会的な変動がありました。


左*ジョン・ウィクリフ肖像画  右*ヤン・フス肖像画


<ウィクリフ>


イギリスのジョン・ウィクリフ(1320年~1384年)は、宗教改革の先駆者と呼ばれ、教権と俗権の分離、教会統治体制の変革、聖書を中心主義を唱え、聖書に根拠をもたない教会の慣行・教義を批判したため、異端の烙印を押されました。


オックスフォード大学の教授であり、聖職者であったウィクリフは、ローマ・カトリックの教義は聖書から離れていること、ミサに於いてパンとワインがキリストの本物の肉と血に変じるという「化体説」は誤りであること等、ローマ・カトリックを真っ向から批判しました。


また彼は、晩年になって、ヒエロニムスによるラテン語訳のウルガタ『聖書』を英訳しました。信徒の霊的糧である聖書とそれに基礎を置く説教を重要視し、このウィクリフの思想はボヘミアのヤン・フス、また100年後の宗教改革にも大きな影響を与えました。ウィクリフは死後30年を経て異端とされましたが、生前異端とされなかったのは、イングランド王族でランカスター家の祖であるジョン・オブ・ゴーントの保護があったためであると言われています。


<ヤン・フス>


ヤン・フス(1369年~1415)は、チェコ出身の大学教授、宗教家でジョン・ウィクリフと並んで宗教改革の先駆者です。ヤン・フスは、チェコのボヘミア地方で生まれ、苦学してプラハ大学で神学を学び、1398年に同大教授に就任しました。1402年にはプラハ大学の学長に任命され、また1400年には聖職者に任命されています。


ウィクリフに強く影響され、ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手し、ボヘミア王の支持のもとで、贖宥状を批判するなど反カトリック的な言説を説き、聖書だけを信仰の根拠として、プロテスタント運動の先駆者となりました。フスはイギリスのジョン・ウィクリフの改革思想に強く共鳴し、救霊預定説を唱え、聖職者、教会の土地所有、世俗化を厳しく非難しました。カトリック教会はフスを1411年に破門し、コンスタンツ公会議によって有罪とされ、その後、火刑に処されました。


フスは破門された後も『教会論』などの著作による活動を続け、民衆に広く支持されました。コンスタンツ公会議に召喚されたフスは、ここでも教会批判をやめなかったため、「悪魔」として火あぶりに処されましたが、この事件は波紋を呼び、地元のベーメンで、フス派が教皇と皇帝に対し反乱を起こすフス戦争が勃発し、鎮圧まで17年かかりました。


あと、フェラーラ生まれのドミニコ会修道士サヴォナローラ ( 1452年~1498年) も、フィレンツェで神権政治を行なうなど、宗教改革の先駆と評価されることもあります。


こうして彼らは、ルターやカルヴァンの本格的な宗教改革の先鞭をつけたのです。


<教皇権の衰退>


12世紀から13世紀に渡って行われた十字軍は、結局失敗に終わり教皇の権威は弱まっていきました。続く14世紀は教皇の権威が失墜していった時代です。


1303年、フランス国王フィリップ4世がローマ教皇ボニファティウス8世をイタリアのアナーニで捕らえた「アナーニ事件」、更に1309年、フィリップ4世がローマ教会に圧力をかけ、クレメンス5世をアヴィニョンへ移住させた「アヴィニョン捕囚」(教皇のバビロン捕囚)を引き起こして、教皇権の衰退を印象づけました。


そして1378年から 1417年の間に2人、のちに3人の教皇が乱立し、それぞれ固有の聖庁(ローマ、アビニオン)を設けた「教会の大分裂」(大シスマ)が起こって、ますます教皇権威の失墜が生じ、聖職者の堕落など、カトリック教会の道徳的腐敗が蔓延していました。


このような中世の閉塞感の中で、人間性の復興を掲げるルネッサンスが勃発していきます。ルネッサンスとは「再生」「復活」を意味するフランス語であり、一義的には、古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動で、14世紀~15世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まりました。理性や人間性に重きを置き、中世の抑圧された人間性解放を目指すヘレニズム復興運動であります。


ルター、カルヴァンに象徴される宗教改革の背景には、前段階として、以上のような宗教的、思想的、社会的な変動がありました。


【宗教改革の理念]


さてルターの宗教改革の三大理念は、「信仰義認」「聖書主義」「万人祭司主義」であります。以下、この理念と宗教改革の意義について考察いたします。


人間が義であるか義でないか、即ち、正しいもの、罪なきものとされるのを決めるのは、あくまでも全知全能の神であって人間ではない、人間には神の恩恵と救済を信じてひたすら祈るしかないとルターは主張します。そして、「人間はただ信仰によってのみ義とされる」という信仰義認説の教理へと到達しました。


プロテスタントのルーテル教会(ルター派)を創設した宗教改革者ルターの信仰の基盤は、神の義を徹底的に信じる「信仰義認」と、聖書の記述にある規範と典礼を忠実に守り聖書に最高の権威を置く「聖書中心主義」にあります。


ルターはキリスト教を信仰する本質は「信仰のみ・聖書のみ・神の恵みのみ」であり、ローマ教皇を頂点とするローマ・カトリック教会の権威や聖性を信仰することは、必ずしもキリスト教の本質ではないと考えました。ローマ・カトリック教会の宗教的権威を否定し、信徒は「聖書を通じて神の前に自由に立つ」ことができ、聖書に従って信仰を行う者全員を司祭とするというプロテスタントの「万人祭司主義」が確立されていきました。


<信仰のみー信仰義認説>


ルターの信仰義認の思想は、パウロの救済思想の再発見、アウグスチヌスの恩寵救済主義の再解釈でもあります。パウロはロマ書の中で神の義の思想を説きますが、ルターはパウロのこの「神の義」から着想を得てプロテスタンティズム(新教)の原型を構築しました。即ち、人間は「善行(努力)によって救われるのではなく、ただ全知全能の神の義(正しさ)を信じる敬虔な信仰によってのみ救われる」という「信仰義認説」であります。


これは、主体性のある能動的な信仰から主体性を捨てた受動的な信仰へのコペルニクス的な転回でした。 ルターは、著作『キリスト者の自由』の中で「キリスト者が義とされるには信仰のみで十分なのである。どんな行いも必要ではない。キリスト者は、どんな行いも必要としないことであらゆる戒めや律法から解放され、それ故自由なのである。これこそがキリスト者の自由であり、信仰のみということである」と述べています。


ルターは大学で詩篇とローマ書を講義しましたが、その講義の中で、人間は心の奥底に、神に背く、どうすることも出来ない暗い闇を抱えているとし、第一に、人間の罪について、第二に、その罪からの救いとしての「恵みの義」について、第三に、その「恵みの義」を 、ただ信仰によってのみ受けとることができる、ことを講じました。これをルターは「十字架の神学」と呼び、聖書の中に記されている、神からの「贈り物」としてのキリストの言葉を解き明かました(徳善義和著『マルティン・ルター』岩波新書P48~55)。


カトリックの時代には、世俗的な欲望を自制して他人を助ける善行と協働に努力すれば、神に認められて天国に行くことが出来るという教義解釈が一般的でした。この立場に立つと、人間の主体的な努力(善行)で神の義の判定が決定されることになり、全知全能の神の意思を勝手に推測してしまうことになるというのです。


カトリックの贖宥状(免罪符)には、金銭欲のあからさまな充足という問題以外にも、「教会に金銭を寄付する善行(功徳)」という主体的な努力によって天国に行けるという信仰上の誤謬があるとルターは考えました。しかし、ルターは上記著作の中で「このことは信仰のみということ、ただ『義と救い』を得るためにはどんな行いも必要としないということである」と述べています。


そしてこの信仰義認の思想は、親鸞が唱えた絶対他力の思想と類似性があります。


浄土真宗の教祖親鸞の思想は、崇める対象こそ違いますが、前記ルターの信仰義認論と瓜二つです。親鸞の師匠法然は、善導の「観無量寿経疎」に出会い、どのような凡夫であっても、「南無阿弥陀仏」と唱える称名念仏(専修念仏)によって極楽往生がかなうと確信し「選択本願念仏集」をあらわしました。 ちなみに南無阿弥陀仏とは、サンスクリット語「ナーム・アミダーバ、ナーム・アミダーユス」の変化したもので、「私は、無限の命、無限の恵み、無限の光を賜る方(阿弥陀仏)に帰依します」という信仰告白に他なりません。


その法然の弟子である親鸞は、9歳で出家し20年間比叡山で修行しましたが、結局「煩悩を自力で解決することは不可能」であることを悟り、下山して法然の門下に入ることになりました。そして行から信の信仰にいたります。法然は自力救済は困難としましたが、親鸞は不可能としました。法然は念仏は修行の一貫であるとしましたが、親鸞は念仏自身も阿弥陀仏の賜物と考えました。弥陀の本願を信じる信心によって既に救いは成就しており、救われた者の報恩感謝として念仏を唱えるのであり、修行(善行)として唱えるのではないとしました。


そしてその弥陀を信じる信心さえも弥陀の賜物と考えます。こうして親鸞は、法然の他力の思想をより徹底させ、全てを阿弥陀仏の働きに身を委ねる「絶対他力」の思想を確立していきます。この親鸞の絶対他力の思想は、その思想形成過程を含めてルターの罪観、信仰義認の救済観と酷似しています。またカルバンの予定説に近い思想とも言えるでしょう。20世紀最大の神学者であるバルトも、浄土(真)宗の信仰はルターの信仰義認と瓜二つだと言っています。


雑誌レムナントを発行されている久保有政牧師は、親鸞は聖書を読んで、かなり聖書の信仰に影響されていたのではないかと言われています。西本願寺には『世尊布施論』が宝物として保管されており、これはネストリウス派(景教)の聖典の一つで、「山上の垂訓」の漢訳です。また世尊とはイエス・キリストのことで、聖書が親鸞の信仰にどれだけ影響したのかは別として、親鸞は比叡山でこれを読み学んだといいます。


また親鸞はルターと同様、結婚して非僧、非俗の道を行くことになりましたが、苦行でもなく、放縦でもない中道の道、そして絶対他力の思想で救いを得ることになりました。


<聖書のみールターの聖書観>


前記、信仰による義認が実質原理であるとすれば、恵みによる義認を所有する器としての聖書は形式原理といえるでしょう。「主観真理と客観真理」です。信仰義認という主観真理を聖書という客観真理で保証したというのです。


ラテン語だけでなく、ギリシャ語やヘブライ語にまで遡って聖書を読んだルターは、「教皇や聖人を通さずとも、人は誰でも聖書を読むことで神に祈り、神の言葉を通して直接神の前に出て神の恵みを受けることができる」と説きました。即ち、救いは教皇や教会にあるのではなく、「個々人が聖書を通して神とキリストに直接つながる」ことにあるとし、信仰の判断基準や救いの原理を、教皇よりも聖書に権威を置きました。つまり、カトリックの伝統や慣例の否定です。また「聖書に根拠のないものは認められない」として、贖宥状を否定し、7つのサクラメント(秘蹟)も洗礼と聖餐を除いては認めませんでした。


『私はこのように聖書を読み、聖書と取り組んで、宗教改革的な聖書理解に達した』の文書の中で、聖書は祈りをもって読むべきこと、黙想し時には声を出して繰り返し読むこと、試練の只中で読むこと、と述べています。 


ルターは、聖霊の導きによって、そして知的理解のもとに聖書を学びました。即ち、神霊と真理による理解です。ルターの聖書の取り組みは、「神の言葉は神の霊と共に働く」との信念のもとに、聖書を通して神のことばを聴き、そのことばを心のうちに受け止めて生きる信仰者としての生き方の追求でもありました。このようにルターは聖書的福音を重視し、「神学を哲学から解放すること」を掲げ、スコラ神学を批判いたしました。


<万人祭司ー全信徒祭司>


宗教改革の3番目の理念である「万人祭司」とは、すべてのキリスト者が祭司であるという教理で、宗教改革においてルターが強く主張したプロテスタントの根本的な教理の一つであります。このためプロテスタント諸派には「聖職者」との呼称・役割が存在せず、教職者としての牧師が教会の指導に当たります。「聖職者と平信徒との区別はなく、皆が祭司として執り成しの役事が出きる」というものです。


モーセの幕屋の掛け幕はイスラエルと異邦人を区別し、聖所の入口の幕は祭司と一般のイスラエルを区別し、垂れ幕は大祭司と祭司を区別しましたが、今やそれが全て取り払われ、われわれは至聖所まで入ることができるというのです。


ルターは、1520年その著書『ドイツのキリスト者貴族に与える書』の中で、「聖」と「俗」との二つのクラスにキリスト者が分けられた中世の教会のありかたを批判しました。ルターは、神の目からはキリスト者がすべて「祭司」であると主張したのです。ルターは「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」(1ペテロ2.9)を根拠聖句としました。また「わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司とされました」(黙示録5.10)という聖句もあります。


マタイ16章18節の「この岩の上に」の「岩」はカトリックの解釈のように、ペトロ個人を指すのではなく、ペトロと同じ信仰告白、即ち「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16.16)を告白する信徒すべてを意味し、一人ひとりが直接、神とつながっていると考えました。こうしてカトリックのヒエラルキー的な聖職者システムを否定しました。 


全信徒祭司性とは、「洗礼を受けたすべての信徒は皆、基本的に祭司に預かっている」ということですが、此の点はカトリックもプロテスタントも認識に違いは有りません。ただ、カトリックでは、この全信徒祭司性を認めた上で、なお祭司職の中に位階制による職務の違いを強調し、司教・司祭・助祭(監督・長老・執事)という奉職制を採用しています。


此の点、プロテスタントは、主から教会に委ねられた務めを、「教会の委託のもとに奉仕していく者を牧師」と呼び、「説教と典礼と牧会」を行います。しかし、牧師も一人の信徒であって、「信徒との間に差異はなく」、位階は認めていません。(徳善義和・百瀬文晃共著『カソリックとプロテスタント』教文館P146~151)


こうしてルターは、上記に見てきた宗教改革の理念を提示しましたが、ユダヤ教、ないしユダヤ人には厳しい思想を持っていました。ルター著『ユダヤ人と彼らの嘘について』は、1543年に上梓した反セム主義の論文で、ユダヤ人への迫害及び暴力を理論化し提唱しています。ナチスが自らの行為を正当化するために、ルターらの、偉大なキリスト教界指導者たちの反ユダヤ的書物を引用したことは周知の事実です。反ユダヤを唱えたクリスチャン指導者はルターだけではなく、平和が続く間、反ユダヤ主義はなりを潜めますが、一度経済危機や戦争が起こると、「キリスト殺し」の嫌疑が勃興し、諸悪の根源として再び反ユダヤが台頭してくるという歴史を繰り返してきました。(1982年、ルーテル世界連盟はルターの反ユダヤ主義との決別を正式発表しています)


【宗教改革の意義について】


以上見てきた宗教改革の理念は、カトリック、正教会と並ぶプロテスタンティズムの潮流を形成しました。信仰義認、聖書主義、万人祭司の思想はルター、カルビンなどプロテスタンティズムの共通の理念となりましたが、それは宗教に留まらず、やがて自由主義、民主主義、資本主義といった近現代の潮流を生み出す源泉になったことは多くの識者が認めているところです。


ではルターやカルヴァンらによってもたらされた宗教改革の意義とは何でしょうか。


第一に「救いとは何か」という問題に、コペルニクス的な聖書解釈を提示し、カトリック中心の中世から近代へと脱皮する信仰的動機を与えたことです。


第二に、この宗教改革を契機に、多くのプロテスタント各派が誕生すると共に、やがて「信仰の自由」が確立され、それを担保する「政教分離原則」が憲法にも明記されるようになり、自由主義、民主主義、立憲主義の思想的源泉となったことです。


そして第三には、カトリックと並ぶプロテスタントが誕生することによって、両者の霊的緊張感が高まってリバイバルを誘発したことであります。  


筆者は以上の3点を挙げたいと思いますが、この他、アメリカ独立宣言に見られる近代自由やマックスウェーバー著『プロテスタンティズムと資本主義の精神』で明らかにされた資本主義の源泉になったことなど、多くの波及効果も指摘されています。また文明史的には、ヘレニズムの流れを汲む人文復興(ルネッサンス)に対するアンチテーゼとして、ヘブライズムの復権として位置付けることもできるでしょう。


以上、宗教改革の三大理念と意義について解説いたしました。


後述において、この宗教改革の理念は、カトリックとどこが異なっているのか、そして原理観との対比を考察したいと思っていますが、私たちの信仰の在り方を吟味するよい材料になると思料いたします。とりあえず次回は、もう一人の重要な宗教改革者であるジャン・カルヴァンについて論評いたします。(了)



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