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新約聖書の解説㉗ ヨハネの黙示録①

🔷聖書の知識154ー新約聖書の解説27ーヨハネの黙示録①


すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる(5.5)


新約聖書最後の書である「ヨハネの黙示録」の解説ですが、今回はその①として、ヨハネがパトモス島で、天におられる栄光のキリストを目撃した(1.13~16)ことから黙示が始まり、7つの教会への手紙、ダビデの若枝が七つの封印を解く場面(5章)を経て、再臨を迎えるまでの大患難(6章~18章)を概観いたします。


【黙示録とは】


ヨハネ黙示録は、ローマ帝国下で迫害に遭っている信者を励ますために、これから終末に向けて起こることを預言した書で、95年頃、使途ヨハネによって書かれたと言われています。ネロ帝のキリスト教徒迫害はローマ周辺に留まっていましたが、ドミチアヌス帝 (在位81~96年) の当時、迫害はローマだけでなく、 小アジアにも広がっていたからです。


ローマ帝国の迫害によって、殉教の死を遂げる者も出始め(2.13)、信者たちは、未来に希望の光を見る必要がありました。つまり、黙示録は、忍耐をもって迫害を耐え忍ぶようにという勧告の書であると共に、終わりの日には、悪は必ず滅ぼされ、再臨による新天新地が到来するという預言の書であるというのです。


即ち、ダビデの若枝が七つの封印を解く場面から始まり(5章)、大患難 (6章~18章)を経て、キリストの再臨(19章)、千年王国(20章)、新天新地(21章~22章)、という道筋が示され、再臨の到来と天国理想を預言した希望の書であります。


そして黙示録ほど人によって色々と解釈されてきた書はありません。それは黙示録が比喩や象徴で書かれ、人々はこの書物に対する先入観によってそれぞれ違った解釈をしてきたからです。


黙示録の主要な解釈には、使徒の時代から今日までの教会史の概要と解釈する歴史主義、神と悪魔、善と悪の間の戦いを象徴的に描写したものであるとする比喩的アプローチ(理想主義)、これから起こるできごとの預言であるとする未来主義、など色々ありますが、筆者は、終末に起こる出来事を、比喩や象徴で暗示された預言の書であると考えています。


ちなみに黙示とは、暗黙のうちに意思を表示することという一般的な意味もありますが、ユダヤ教やキリスト教では、神が特別の方法により、通常の才能や知識では測り知ることのできない「(終末における)隠された真理を開示すること」 であります。


黙示は啓示のような一過性のものではなく、霊視や幻や超自然現象などで示され、黙示によって、四六時中霊界の中に入り、神の生活感情に触れるという体恤的信仰を体験します。ヨハネ黙示録はその典型で、エゼキエル書、ダニエル書にも黙示が書かれています。 黙示文学ともいいます。


【概観】


「ヨハネの黙示録」( Revelation)は、新約聖書の中で唯一預言書的性格を持つ書であり、前記の通り、「黙示」には、秘密の暴露の意味があります。キリスト教徒の間でも、その解釈と正典への受け入れをめぐって多くの論議を呼びおこしてきた書であり、聖書の中で最もその扱いが議論されている書であります。


そして397年に開催されたカルタゴ会議で、ヨハネの黙示録を含む27文書が正典として認められました。


<著者>


聖書自身の自己証言による伝統的な理解では「ヨハネによる福音書」、「ヨハネの手紙1・2・3」、い異論はあるものの、「ヨハネの黙示録」の著者をすべて使徒ヨハネであると考えられてきました。2世紀の殉教者ユスティヌス、エイレナイオス、アレクサンドリアのクレメンス、テルトゥリアヌス、オリゲネスらの教父は、使徒ヨハネが黙示録の著書であることを認めています。


また黙示録の著者は、自らを「しもべヨハネ」と称し、「神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた」(1.9)と記していますが、これは伝承による使徒ヨハネの晩年の境遇と一致しています。


また、新約聖書において「小羊」という言葉をキリストの象徴として用いているのは、ヨハネの黙示録とヨハネによる福音書だけであります。


但し9世紀にはコンスタンティノープル総主教ニケフォロス1世がその著書の中で、「ヨハネの黙示録」を「ペトロの黙示録」と共に「真性に疑問のある書物」であるとし、最終的には中世末期、正教会でも正典に加えられはしたものの、聖書の中で唯一奉神礼で朗読されることのない書となっています。


<黙示録の性質>


ヨハネの黙示録に書かれた世界の終末の描写があまりにも生々しく衝撃的であり、黙示録は地獄的な様相をあおる終末思想のイメージと結びつきました。


しかし冒頭に記したように、黙示録は、大患難の世界の終わりのあとに、再臨によって新しい世界が到来することを預言したもので、本来は滅亡をあおる書ではなく、希望の書であるというのです。


福音書の中心テーマは初臨のキリストですが、黙示録のテーマは再臨のキリストであり、その目的は、信者を励ますと共に、キリストの再臨に備えさせることにあります。従ってキリストの再臨を中心に据えて将来の出来事を概観すると以下のようになります。


1章~3章初めの言葉、七つの教会へのメッセージ

4章~18章 キリストの再臨に至るまでの出来事

19章 キリストの再臨

20章 キリストによる千年王国

21章~22章 新天新地



最後の審判(ミケランジェロ画)


【構成】


「ヨハネの黙示録」は、古代キリスト教の小アジアにおける七つの主要な教会にあてられる書簡という形をとっています。七つの教会とは、エフェソス、

スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアであり、エフェソス以外は知られた教会ではありません。


黙示録1章19節に「そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい」とあります。


上記聖句の「あなたの見た事」とは、ヨハネはがパトモス島で、天におられる栄光のキリストを目撃したことです。(1.9~20)


「今ある事」とは、教会時代の描写で、7つの教会への手紙となっています。(2.1~3.22)


「この後に起こる事」とは、4章~22章までの出来事を指します。「七つの封印の開封」(6章~8章5節)、「七つのラッパ」(8章6節~11章19節)

、「七つの鉢」(15章~16章)は、終末に3つ続けて起こる一連の神からのさばきと厄災です。終末が先に進むにつれ、さばきはだんだんとひどく破壊的になって行きます。七つの封印とラッパと鉢とはお互いに関連し、七つの封印が七つのラッパをもたらし、七つのラッパが七つの鉢をもたらします。


この七つの封印を解くことから始まり、七つのラッパ、七つの鉢に象徴される終末の災厄は実におどろおどろしいもので、神の怒りの激しさ、人間の罪の深さが読者に突き付けられます。


そして遂に大淫婦バビロンが裁かれ(17.1~18)、滅亡します (18.1~8)。こうして大患難が終わり、19章からの再臨、千年王国、新天新地へと続いていきます。


【注目聖句】

「すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(5.5)


神の右手に巻物があり、七つの封印で封じてありましたが(5.1)、その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者がいないので、ヨハネは激しく泣いていました。しかし、ダビデの若枝(5.5)、即ち甦られたキリスト(ほふられた子羊)が巻物を開き、終末に起こる出来事(奥義)が示されていきます。


只筆者は、ダビデの若枝とは、来るべき主(再臨)を象徴し、7つの封印で封じられた巻き物とは、神の神秘、即ち再臨によって明らかにされる聖書の奥義の象徴でもあると理解しています。


「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。わたしは印をおされた者の数を聞いたが、印をおされた者は十四万四千人であった(黙示録7.3~4)


黙示録7章の十四万四千人とは、文字通り解釈すれば、印を押されたイスラエルの部族を代表する人々ということになります。しかし、キリスト教では、これを教会の代表、教会を象徴する数字であると解釈されています。


原理によると「再臨主が降臨されたとき、最初に信じ侍って、すべての人間に先立って原罪を脱ぎ、創造目的を完成した人たちが『復帰摂理路程の全体的な、また世界的な蕩減条件を立てる聖業に協助する人々』」(講論P224)ということになります。


つまり、再臨主が降臨されて、全体摂理遂行のために立てられ 、「再臨主を証しする聖業に同参する信徒の象徴的な数」であり、これが正に世界に散らばる統一食口の群れ、UCの群れであるというのです。


黙示録14章1節には、「見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた」とありますが、これは正に再臨主(子羊)の傍にいて支える統一の群れを象徴しています。


「さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された」(12.7~9)


この聖句は、創世記3章で、エバを誘惑して堕落した蛇が堕天使であったことを示す根拠聖句の一つです。もともと神の使い、賛美の霊、即ち善なる存在として創造された天使でしたが、エバとの姦淫によって蛇に象徴される堕天使となったということが分かります。


以上、ヨハネの黙示録の大患難までを解説しました。次回は、大患難のあと、再臨、千年王国、新天新地について解説いたします。(了)

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