試論 神道のカミとユダヤ・キリスト教の神①
吉田 宏
目次
プロローグ 神道は「真の神」に至る養育掛である・・・・・・・・・・・5
一、神道概観-神道とは何か ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
1、神道の神―神道は多様性の神である。
(1)神道の「カミ」
(2)神道の神の定義
(3)カミ概念の多様性
2、神道の信仰―自然信仰、先祖信仰
(1)自然信仰
(2)先祖信仰
(3)古代の思想と現世利益の信仰
(4)神道の信仰とは
3、神道の特徴と思想
(1)神道には教祖、教義、聖典、布教がない自然宗教、民族宗教である。
(2)聖典について
(3)法律上の宗教の定義
(4)しかし、教義らしきもの、神道の思想はある-①②➂は三大思想
①清浄思想(禊、祓い)②惟神の道(随神の道) ③和と共生の思想 ④現世利益の思想 ⑤産霊(ムスヒ)の思想 ⑥神道の宇宙観と死生観
4、神道は日本の社会に深く浸透しているー伝統行事・風習・祭
(1)日本人の宗教観
(2)伝統行事・風習―日本の伝統行事・風習の多くは神道に源がある
(3)祭り
(4)その他の風景
二、神道の歴史的変遷 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
1、神道の起源
2、神道の歴史概観
(1)概観
(2)神仏習合
3、古事記と神道
(1)古事記概略―天皇家の話としての「古事記」
(2)古事記上巻の神々と主な出来事
(3)古事記の神の本質
(4)天之御中主神
4、日本書紀
5、天皇と神道
6、神道の各派
(1)古神道
①古神道とは ②古神道の思想 ③近現代の古神道
(2)山王神道・両部神道
(3)伊勢神道
(4)吉田神道
(5)儒学と国学の神道
(6)国家神道
(7)教派神道
(8)現代の神道
(9)まとめ
7、有名神社とその概要
三、日本教とは何か、日本教の形成に神道は如何なる影響を与えたか・・44
1、日本教とは何か
(1)問題提起―外国人の3つの疑問
(2)日本の起源・古代史―ここから日本のルーツと原点を探る
➀縄文時代 ②縄文時代の文化―縄文時代は日本の原型 ③弥生時代- 縄文との融合による日本人の形成
(3)日本教の思想
➀日本教とは(定義) ②日本人の宗教観・倫理観の源流 ③日本人の倫理観
2、神道は日本教にいかなる影響を与えているか
3、日本の特質
四、神道の思想・祭祀とユダヤの思想・祭儀法 ・・・・・・・・・・・53
1、ユダヤの思想(①②③④は四大思想)―神道はユダヤ・キリスト思想との対比で考えるとよく理解できる
①唯一神礼拝の思想 ②選民思想 ③メシア思想 ④贖罪思想 ⑤弱者救済思想 ⑥批判精神
2、神道の思想― 既に、一の3の(4)で論じた
①禊、祓いの思想 ②惟神の道 ③和と共生の思想 ④現世利益の思想
⑤産霊(ムスヒ)の思想 ⑥神道の死生観
3、ユダヤ祭儀法
(1)幕屋とその構造
① 幕屋の建造とその目的(出エジプト25章~40章) ②幕屋の構造
(2)幕屋の祭儀
①祭司制度(出エジプト27~28章) ②祭物(いけにえ)(レビ1~7章)
(3)イスラエルの祭り(主の祭日レビ記23章)
①安息日 ②過越しの祭 ③初穂の祭り ④七週の祭り ⑤ラッパの祭り ➅贖罪日 ⑦仮庵祭
4、神道の祭祀
(1)神社の構造
(2)神道の祭祀
①大祭 ②中祭 ③小祭 ④儀礼・風習・習俗
(3)お祭り
➀祭りの意味 ②日本の著名な祭り
五、神道の中のユダヤ思想、キリスト教思想(試論)・・・・・・・・・64
1、ユダヤ・キリスト教の神道への影響
2、影響を示唆する例
3、仏教とキリスト教
4、神道は古代イスラエルの宗教に行き着く(久保有政牧師による)
(1)有識者の証言 (2)神社の神体と幕屋の神体-偶像ではない (3)神社の構造と幕屋・神殿の構造は同じ (4)神社のお神輿は契約の箱がモデル (5)神主の服装と祭司の服装 (6)お祓い (7)拍手 (8)手水舎(9)鳥居 (10)賽銭箱 (11)高いところに神社 (12)注連縄 (13)イザナギとイザナミの結婚式はユダヤ式 (14)神道は民族宗教 (15)塩を清めに使うー穢れを禊ぐルーツ (16)神社中心の日本人 (17)正月の風習 (18)神社に動物犠牲がない理由 (19)七瀬の祓えとキリストの贖い (20)知らずに拝んできたお方
六、神道と天皇について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・78
1、天皇と神道の歴史的な係わりについて
2、明治以後の国家神道及び神道の変遷
3、神道に於ける天皇の立場
4、天皇と古事記の関係
5、神道に帰依することは天皇に帰依することなのか
七、神道の「カミ」は偶像に当たるか・・・・・・・・・・・・・・・94
1、各宗教の神概念― 一神教の神と多神教の神
2、偶像とは何か
3、古代イスラエルにおける偶像問題
4、キリスト教の聖像論争
5、神道のカミは偶像か
プロローグー神道は「真の神」に至る養育掛である
1、受容
本項のテーマは「受容」である。受容とは、相手を受け入れ取り込むことによって、こちらが受け入れられること、即ち、相手との融合を目指しながらも、こちらの本質は変わらない布教のあり方と一応定義しておく。そしてキリスト思想(新しい聖書の真理)の日本社会への受容という視点から見た場合、日本民族の伝統宗教である神道について正しく知ることは必須である。そういう観点から、以下の3点を論じたい。
①日本社会の伝統・文化の基層になっている神道への理解とその聖書的考察。
②いわゆる日本教(日本の伝統、文化、ものの考え方、宗教観の総体)とは何かを分析し、神道がこの日本教の形成にどのように影響しているかを明らかにする。
③神道思想とユダヤ思想を比較検証し、神観、罪観、救済観、祭儀観などの異同を明らかにし、新しい神道解釈の試論とする。
2、これからの布教のあり方
布教方法には他宗派批判的伝道(折伏的、福音的)と文脈化伝道(コンテクスチュアリゼーション、文化適用、土着化)がある。それぞれ長短はあるが、大きな流れは後者になる。日本の伝統文化をよく理解し、それと寄り添う形の布教が賢明である。
牧野秦牧師はかっては神主であったが、後にクリスチャンになって「神道は旧約の神の国で、キリスト教は新約の神の国だ」と述懐した。
パウロの見解は次のようである。
使徒17・22 アテネの人たちよ、道を通りながら、あなたがたの拝むい
ろいろなものをよく見ているうちに、「知られない神に」と刻まれた祭壇があるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。
ガラテヤ3・24 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。
3、結論
律法(旧約の神)が、パウロを福音(新約の神)に導く養育掛になったように、神道は、日本人を真の神に導く養育掛、真の神を知る養分となる。「新しい聖書の真理」は神道を否定するものではなく完成するものである。
一、神道概観-神道とは何か
1、神道の神―神道は多様性の神である。
(1)神道の「カミ」
神道のカミはキリスト教でいう神(God)とは異なる概念である。これは翻訳の間違いによるもので、神道では、自然・万物・森羅万象・天変地異、人間、記紀の神々、など畏敬すべきもの、優れたものを「カミ」と呼んだ。
従って八百万の神は、神道の神々を含め、エホバの神、アラーの神、大日如来の神も包含する概念である。「神道のカミ」と「一神教の神」は、神道のカミ概念においては矛盾しない。仏教とキリストの神が八百万の神々にもうひとつ加わっただけであり、従って多神教と言うより多様性のカミという方が当っている。
もともとの古代イスラエルの一神教は、多くの神々から一つを選ぶ「拝一神教」「単一教」とも言えるものであった。メソポタミアの神、エジプトの神、ギリシャの神も多神教であり、古代世界は元来多神教だった。従って日本古代の神観念は日本特有のものではなく普遍性を持つものであったといえる。
(2)神道の神の定義
「さて凡て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしえのみふみども)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋(よの)常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云ふなり」
神道のカミは本居宣長の定義では、畏しこきもの、秀でたものをカミという。多神教というより多様性に富むカミである。そして神々は平和裏に共存している。
1)記紀の神々(古御典等に見えたる天地の諸の神)
伊勢神宮:主祭神は天照大神で神体は鏡、木島神社:祭神は天御中主神など・3柱鳥居は有名、宗像大社:天照の3人の娘、伊勢神宮外宮:とようけひめ、多賀神社:イザナギ・イザナミ、伊勢山皇大宮:天照大御神、住吉大社:筒男三神、志賀神社:綿津見命、富士山本宮浅間大社:コノハナサクヤヒメ、ニニギノミコト
2)神社のカミ(社に坐す御霊)
加茂神社:加茂氏の氏神、伏見稲荷大社:地域農業神(稲)
3)人間の神(人)
明治神宮:主祭神は明治天皇、靖国神社:英霊245人が祭神、北天満宮:菅原道真、八幡神:応神天皇、乃木神社:野木希典、東郷神社:東郷平八朗)
4)自然のカミ(鳥獣木草のたぐひ海山など)
大神神社(オオミワ):三輪山自体がご神体で本殿がない、富士山本宮浅間大社:富士山が神体(山宮神社が縄文神道の原型を留める)、宗像大社沖津宮:沖ノ島全体が神体、神倉神社:巨岩が神体、熊野速玉神社:ゴトビキ岩が神体
又人間は死後カミになるという考え方がある。尊敬する人物と共に、怨霊として祟りをなす人物なども「神」として神社に祭られることがある。 しかし、神道は汎神論ではない。神として崇める対象に選ばれるのは、人知を超えた知恵や力などの霊的特性を示すものに限られる。神道のカミは、絶対的な神あるいは全知全能の神という概念の神ではなく、それぞれの霊的神性を持つ八百万の神々に対して崇敬を寄せる。
→ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は一神教、排他的一神教である。仏教では多くの如来・菩薩・明王・天と、一見多神教のようだが、「釈迦が説いた悟りの境地を目差す」という仏教全体の大目標があり、その目標に向けての統一的世界の中でそれぞれの如来・菩薩・明王・天が位置づけられ、役割を担っている。その点、神道の神々は、互いの脈絡なく、バラバラに存在する。「多元的」といってもいい。これが神道の神の大きな特徴である。
しかし、神道の神概念は、存在論的には多元的でバラバラのようであるが、自分より 優れたものに敬意を表するという道徳的宗教観念(宗教的情念)や祟りを恐 れる畏怖観念で結ばれている。なお、天照大御神を頂点として位置づけられているという見方もある。→これは日本道徳の源になる。
2、神道の信仰―自然信仰、先祖信仰
(1)自然信仰
神道は、自然そのものを畏敬すべきものとして崇めるアニミズムである。豊かで美しい自然は(70%以上が森林)人間に幸をもたらすという自然観は、日本の地政学的に恵まれた自然から生まれている。一方4つのプレートがぶつかる地震や天災が多い地形でもある。
このカミの概念は縄文時代に起源がある。(BC1万年~BC300年) 日本は豊かな自然恵まれている。山、森、川、水、空気、四季、温暖。この豊かな自然は人間に幸いをもたらすものとして畏敬の対象になった。
一方、日本のカミは自然災害を起こす怖いカミでもある。人間の力ではどうすることも出来ない自然の力を畏敬し一体となって共生する道を選んだ。→キリスト教は自然を管理する対象と見た(主管せよ。創世記1・28)
これらが、日本の土着宗教となった。ちなみに古代では、ギリシャ・エジプトの神々、インドのヒンズー教、ケルト族のドルイド教(自然や森を信仰)など多くの国々が多神教だった。従って日本古代の多神性は世界的に普遍性があった。
遠い祖先の時代から受け継がれて来た日本の伝統的な信仰である神道が求めるものは、自然とともに生き、祖先の心を己の心とし、人と平和に暮らす共生であった。
(2)先祖信仰
古くから祖先は死んでカミになるとの考え方があった。精霊として恩恵をもたらす祖霊、怨霊としての鎮魂の対象としての祖霊がある。これらは報恩と鎮魂の思想になる。(神道の死生観の項で詳述)
死んだ先祖は、縄文時代には地域集落を守るカミとなり、やがて弥生時代・古墳時代には有力氏族は氏神を祀るようになった。これが氏神信仰であり、その最大のものが、大君(天皇)が祭る氏神である。
神道における先祖供養の行事は、「亡くなった祖先を慰めるもの」というより「神となった祖霊に自分たちの繁栄を願い祈るための行事」であり、これは祖先が極楽に行くために仏事を行なう仏教とは異なる思想である。
→ユダヤ教には先祖崇敬はあるが先祖礼拝はない。キリスト教では先祖供養は総じて消極的ないし否定的である。プロテスタントでは死者への祈りが禁じられている宗派がある。(改革派教会など) UCは先祖祭祀を認め、先祖解怨の儀式を有す。しかし、先祖崇敬はするものの先祖崇拝はしない。
(3)現世利益の信仰
1)縄文時代の集落
円形の集落跡に見られるように、円の発想、平等思想があった。「円の発想」「独り占めしないオキテ」「自然の恵みを取りすぎない」などの共同体の思想があった。又人や動植物をはじめ、雨や風といった自然現象などすべてのものが精霊を持つという「精霊崇拝」の考え方が基本にあり貝塚は役目を終えた精霊を祀る場所であった。
縄文人は土器を作ったが、土器を造るには、土、火、水、風が必要で、自然界を構成する「地・水・火・風」の四大精霊に対して、特に尊敬する気持ちを持っていた。遺跡から、土偶、土面、土版、石棒、屈葬、切歯、犬歯が出土している。
神奈備山・大樹・巨岩・孤島・川の淵などへの祭祀、氏神への祭祀があり、呪術(禊、祓、太占、神明裁判)を行い、五穀豊穣、地域社会の安寧を願い祭を行った。これらは、現世利益の思想につながる。
2)稲作社会では、定住性、農作業などを協働で行うため結束の強い共同体を造りだした。そこで祀られる最も重要な神は「共同体の祖先神」であり、それはその土地の守り神と考えられ、共同で祀ることが多かった。故に神道は基本的に集団の信仰であり、後に個人の救済が求められるようになると、それは仏教に求められることになって、そこに宗教の棲み分け・役割分担が出てくる。この役割分担は現在まで続いている。
(4)神道の信仰とは
以上のとおり、神道の信仰と祈りは、、個人の救いというより、神として祀られている霊魂への「鎮魂・慰霊・感謝」である。霊魂(神)への鎮魂・慰霊・感謝により、災害や疫病から免れ、収穫が得られ、家内安全・子孫繁栄が得られ、それに感謝する。その鎮魂・慰霊・感謝として行うのが「祭」であり、「お参り」であり、「お祈り」である。
これが神道の根幹であり、日本民族の宗教的情操の根本にあるのは、自然、先人・先祖のお陰であると考え、これらのものへの畏敬・崇敬である。
3、神道の特徴と思想
(1)神道には、教祖、教義、経典、布教、戒律、修行(修道)の6つが無い。
神道は教えるものではなく道であり、知るものではなく感じるものである。
→「何事のおわしますかはしらねどもかたじけなさに涙こぼるる」(西行)
昭和21年の神社会議でも、「神道は制定教義を持たない」とされ、その後昭和31年「敬神生活の綱領をもって信仰生活の拠り所とする」と宣言された。
(2)聖典について
1)古事記、日本書紀、古語拾遺、宣命といった「神典」と称される古典が神道の聖典とされているが、聖書、コーラン、大蔵経典のような確立された教義ではない。又祭りに際してそれらが読誦されるようなこともない。
神道のテキストとしてあえて挙げるとすれば、10世紀に編纂された『延喜式』に朝廷の祭祀が詳細に記されていることや、伊勢神宮の儀式を記した『延暦儀式帳』など、祭りの仕方・次第を著したものくらいである。
→1932年に設立された大倉精神文化研究所の書物「神典」によると、神典には、「古事記、日本書紀、古語拾遺、宣命、令義解、延喜式、新撰姓氏録、風土記、万葉集」が含まれるとした。
本居宣長は、「先代旧事本記、古事記、日本書紀」とした。
2)教義がないことで、あいまいとも言えるが、外来宗教を受け入れる柔軟さの源ともなった。本来神道は生き方であり、法律の厳密な意味では宗教の概念には当てはまらないかも知れない。
西欧では宗教は知るもの信じるものであるが、神道では感じるものである。自然そのものが教義であり、経典であり、教祖であった。従って戒律も修行もない。神道で修行的なものというと、禊行(滝、海、川)、石上神宮伝来といわれる鎮魂行、それと正座して長時間大祓詞を奏上する、くらいしかない。
→英国の憲法も不文憲法である。ユダヤ教は民族宗教であり布教がない。
(3)法律上の宗教の定義
信教の自由は日本国憲法上でも保障されているが(憲法20条1項)、宗教についての明確な定義は法律上なされていない。
宗教法人法2条1項で、宗教団体は「宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い及び信者を教化育成することを主たる目的とする左に掲げる団体」とされるにとどまる。(宗教の要素:教義、儀式、教育、布教)
最高裁判所の有名な裁判例(最大判昭和52年7月13日 津地鎮祭判決)において「(宗教とは)超自然的、超人間的本質の存在を確信し、畏敬崇拝する信条と行為」と指摘されており、これが一応法律における宗教の定義にはなる。
(4)しかし、教義らしきもの、神道の思想はある-①②➂は三大思想
①清浄思想(浄明正直は神道の徳目)→禊、祓い→高い倫理観の源泉
1)「清浄を貴び、汚れを忌み嫌う」ことは、神道の根本理念である。浄、不浄の区別をし、穢れを忌む。これらは、聖域、手水、お祓い、二礼ニ拍手一礼、入浴の習慣に見られ、簡素さや清潔感を好む嗜好性などに顕れている。伊勢神宮は飾りもなくシンプルだが、清浄感があり感動を呼ぶ。
「禊」は、文字通り「身の穢れを削ぐ」という専ら身体的な穢れを削ぎ落とす意味で、「祓い」は、悪霊など霊的なものを祓うという意味である。
→ユダヤ・キリスト教は、罪は実存的に内在するもので、贖罪すること即ちいけにえを捧げることによって取り除かれるとするに対し、神道は、穢れや悪霊が人に憑くものとし、これを禊ぎ、祓うことによって身を清めるものと考える。
キリスト教は、良いものと悪いものという善悪の価値観を持つのに対して、神道はきれいなものと汚いものという浄・不浄の価値観を有す→イザナギが黄泉から帰ったとき水で清めた儀式が禊の源流で、死や病、出産、月経も穢れとした。
→「清く正しく美しく」は宝塚音楽学校の標語である。
2)神道は、善を妨げるもの、災いをもたらすものが悪であり、これは取り払われるべきものであると考える。従って、神道にはキリスト教や仏教で言う修道(修行)とか戒律と言う概念はない。
昔から日本人には、「自分自身を正していこうとする心=良心」がすべての人に備わっているという考えがあり、たとえ法律では罪にならないとしても、良心に恥じる行為を罪(穢れ)と捉える一面がある。良心は全ての民族の中にあるが、日本の良心基準は際立って高いと言われる。
②惟神(カンナガラ)の道(随神の道)
惟神の道とは、「神の意に従い自然の摂理に従ってありのままに生きる」ことで随神とも言う。(日本書紀の第36代孝徳天皇の詔に出てくる)
古来、日本には茶道、華道、書道、弓道、柔道、合気道、武士道といった色々な「道」があった。これらは惟神の道の表現でもある。神道が「神教」とされず「神道」とされていることに示されている。
③和と共生の思想
1)和の思想には地理的要因が大きい(和辻哲郎の風土論)
豊かな自然との調和・共生の思想がベースにある。海が自然の要害となり、他国の侵略が無く、大きな戦争がなかった。単一民族、単一言語、国家の中心の存在(天皇)などもあり、総じて一つに纏まりやすいことが、和の思想を育む。
又日本人の集団志向は、地域の守り神という神道的な集団信仰にある。本来の日本の伝統は、一神教を基盤とする欧米と違って、自然・人・カミが一体となって共生する多神教的な「和」のシステムにある。ここから互助・互譲・互恵の倫理観が生まれる。
→個人主義は、キリスト教、仏教などの個人救済観念から来る。UCの救済単位が「家庭」とする観念は、神道的救済観に近いとも言える。
2)和の思想の実例
縄文人と弥生人が平和的に混じりあって日本人の原型が生まれたこと、政権を平和的に移行した大国主の国譲りの神話、神仏習合に象徴される異国の宗教・文化の柔軟な受容、などに和の思想が見られる。
聖徳太子の17条憲法の第一条は「和をもって尊しとなす」だが、これは神道の思想だといわれている。(第二条は仏教だが神道の後に来ている)
3)神観からも和の思想はきている。日本の神は万能でも完全でもないく、一神教と違って、うちの神が一番、絶対という発想がない。宗教と文化の境界線もあいまいだ。こう言った寛容さ、あいまいさが和の思想を生み出す。
→人間の脳が優れているのは、脳があいまいでいい加減であるからであるとの学説(柳田敏夫、大阪大学生命科学研究所教授、理化学研究所生命科学センター長)
日本教という言葉を造った山本七平氏は、日本教を一言で言えば「和の精神」だと言われる。和とは包み込むということである。
→一神教には他と交わることを禁忌する絶滅の思想がある(申命記7・1カナン人を絶滅せよ)
→しかし、キリスト教的な愛の概念がなく、まあまあ主義、事なかれ主義で自己主張がない、などの批判がある。
④現世利益の思想
神道には、五穀豊穣、家庭安全、無病息災、商売繁盛、大願成就などを祈る信仰がある。おみくじ、絵馬、お札、お守り、占いといったものを重視する習慣がある。
→ユダヤ教・キリスト教は、占いなどを偶像礼拝として強く否定する。
申命記18・10~12「占いをする者、卜者、易者、魔法使、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない。 主はすべてこれらの事をする者を憎まれるからである。」
使徒16・18「ある時、わたしたちが、祈り場に行く途中、占いの霊につかれた女奴隷に出会った。パウロは困りはてて、その霊にむかい「イエス・キリストの名によって命じる。その女から出て行け」と言った。すると、その瞬間に霊が女から出て行った。
→しかし、UCには「祈願書」を書くという信仰行為がある。
⑤産霊(ムスヒ)の思想
「むす」は生じる、「ひ」は神霊の意。後世「むすび」とも言った。天地・万物を生み出す神霊、万物を生み成長させる神秘で霊妙な力である。「むすひ」の「むす」は「産むす」の「産」が省略されたもので、自然に物事が発生するという意味。「ひ」は「霊または霊力」の意味。
この二語を合わせた「むすひ」は、「生命力」「結び」の意味を持ち、神道ではすべてのものが産霊の力によって創造され、発展、完成すると考えられている。
古事記には天地初発のときに天御中主神と高御産巣日(たかみむすひ)神,神産巣日(かむむすひ)神のムスビの2神が出現したとあるが,本居宣長は,天地をはじめ世の中のすべてのものはムスビの2神の産日(むすび)のはたらきにより出現したのであり,世の多くの神々の中で,2神はことに尊い神であると説いている。
⑥神道の宇宙観と死生観
1)神道の宇宙観は、天上の高天原、地上の葦原中国、地下に黄泉国(根の国)の三層構造。この垂直構造に、海の彼方の常世国(死者の世界)の水平的な広がりを加えたもの。黄泉国は、罪や穢れに満ちた暗黒の世界であり、地上の罪や穢れをすべて黄泉国に祓い去る儀式が、神道の重要な儀式としてある
2)神道の死生観
死んだ祖先をカミとして祀るのは、日本特有の思想である。「死の穢れ(けがれ)」の観念があり、死者はどこか遠くで「穢れ」を浄められたのち、カミのようなものになりうると考えられていた。黄泉の国とは死者の世界である。
死者の霊魂が昇華されてカミになる。人は亡くなると死者の霊魂である「タマ」は、はじめはアラタマ(新魂・荒魂)で、そのアラタマは周りの人たちに危害を及ぼす危険な要素を持っているが、丁重に祀られるにつれてしだいにその荒々しさが薄れ、やがてニギタマ(和魂)として穏やかな性格へと変化していき、そして数十年もすると、タマの段階ではまだ持っていた個性・個別性を失って、祖霊としての祖先神と融合して一体になる。
祖先神(先祖代々の霊で、山の神・田の神ともなって地域の人々の生活や生産を守る神)という目に見えない一つの集合体に同化してしまう。この祖先神(ご先祖様)が里にいるときの住まいが鎮守の祠や社である。他に「御霊信仰」(怨霊を鎮める鎮魂思想)がある。
神が降りてきた時一時的に宿るものが「依代(よりしろ)」と呼ばれるもので、樹木、岩、鏡、剣など。また、人に神が降りてくる場合は「憑坐」(よりまし)といわれる「神がかり」。
→仏教は、人間を、輪廻しつつ成仏をめざす修行の主体と考え、死んだ人間はすぐ別の生命に再生して、この世界をまた生きる輪廻思想を持ち、死者の世界も、霊魂も存在しないと考える。すなわち仏教は、人間の死について、神道とまったく異なる考え方をもっている。
3)他宗教との死生観の違い
神仏習合の思想によって、死ぬ→往生する(極楽浄土)→成仏(仏となる)、という教義から、人間は死ねば仏になる、という観念が広まり、こうして日本人の平均的な死生観がかたちづくられ、今日に至っている。
カソリックでは、煉獄という概念がある。煉獄とは、天国と地獄の間にある霊界のことで、死者の霊が天国に入る前に、ここで火によって浄化されてから天国へ行くとされる。
カソリックでは死者への贖罪の祈りを捧げる。ユダヤ人は祖先崇拝はしなかったが、敬愛の情をもって死者を弔い、死者の為に祈る習慣を持ち、キリスト信者に伝えた。
しかし、プロテスタントでは、煉獄の概念を否定し正教会も認めない。改革派教会では、死者に対する祈りは禁じられている。→UCには先祖解怨の儀礼があり、先祖祭祀を認めている。
4、神道は日本の社会に深く浸透しているー伝統行事・風習・祭り
祭祀、祭り、名節を通してカミの前に出て行くという伝統がある。神々と人間を取り結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀をおこなう場所が神社となる。
(1)日本人の宗教観
日本ではあらゆる宗教が共存している。西暦3世紀から4世紀頃には儒教や道教が伝来した。538年には仏教が伝わって来たが、この外来宗教と日本固有の伝統宗教と区別するために神道(シントウ)という言葉が生まれ神社が造られるようになった。16世紀にはカソリックが日本に上陸した。
キリスト教の宣教師たちは、日本人が神社にもお寺にもおまいりするのを見て驚いた。ある宣教師は祖国に、次のようなレポートを書き送っている。
「日本には宗教が二つある。神道と仏教というもので、長い年月を経て、お互いに影響しあって、日本人の生活に溶け込んでいる。日本人はホトケという偶像を拝み、カミという見えない存在に畏敬の念を抱いている。仏教のお寺にも行き、神道の社にも行くことに何の矛盾も感じない」
このような日本独特の宗教共存を可能にしたのは、八百万の神々を崇拝する神道が基盤になったからである。神道には、もともと包容性があり、客人(まれびと)を大切にして、異文化との接触による文化変容を可能にする素地があった。
「文化庁の統計」(宗教年鑑から)
登録されている宗教法人の総数は182,985法人。神道系が84,996で一番多い。それらの法人に属している信者・会員の総数は、213,826,700人で、神道系がそのうちの50.3%、仏教系が44.0%、キリスト教系が1%。
→神社の氏子であり、お寺の檀家であり、新宗教の会員でもあるということが何の不思議もなく行われている。
(2)伝統行事・風習―日本の伝統行事・風習の多くは神道に源がある
神前結婚:「結び」「産すび」と関連して重視されている。
神葬儀:明るく行う
七五三:子供の健康と成長の祝い。通常11月15日に行われている。
地鎮祭:その土地の神を鎮め土地利用の許しを得る。安全祈願祭。
相撲:本来は神事で、五穀豊穣を祈って奉納するもの。横綱の注連縄。
大掃除:神様を気持ち良く迎えるためのもので、祓いの思想から来る。
正月:正月とは本来、先祖をお祀りし、その年の豊穣と健康を司る歳神様を迎える行事。正月は立春でもあり、物事が芽生える(芽出度い)意味もある。おせち料理を作り歳神をご馳走でもてなす。
おせち料理:お節料理。節句の日に神に食物をお供えする料理。「上巳」「端午」「七夕」「重陽」の各節句で食される料理も「おせち料理」ということになるのが、節句の中でもとくに代表的なものが正月の節句であるため、正月料理をとくに「おせち料理」と呼ぶようになる。
お年玉:もともと、年神の神前に備えた餅のお下がりを頂くことだった。
門松:年神の依代、神霊が拠りつく対象物。神体・神域を表わす。
注連縄:厄や穢れ袚い。神域・結界。神南備(山・森)、ヒモロギ(木々)、盤座(いわうら、岩)に注連縄を張り神が降りる場所として祀る。
お盆:もともとそのしきたりや形式は古神道の先祖崇拝、神道の祖霊の供養だったが、仏教の盂蘭盆会と融合し、仏教の行事のようになっている。先祖に祈り供え物を捧げ、仏との縁を結ぶ。お中元の源。
節句:現在では、1月7日は七草、3月3日は桃の節句/ひなまつり、5月5日は菖蒲(しょうぶ)/端午の節句、7月7日は七夕として親しまれているが、9月9日の「菊の節句(重陽)」は廃れてしまい、一部の地域や皇族のみで行われている。(五節句)
雛祭:お内裏様とお雛様は天皇と皇后のことで、紫宸殿での結婚のこと。
節分:季節に変わる、「節」を「分」ける日のこと。もっとも重要な季節である立春前日の節分だけが年中行事として残り、今でも各地の有力神社では、大がかりな節分の行事が行なわれる。
歳の市:年末に正月用品や縁起物を売る市。その多くは神社仏閣の境内で開かれていた。羽子板を売る羽子板市、門松を売る松市、注連(しめ)飾りを売るガサ市、蓑を売る蓑市、いろいろなものを売るボロ市などさまざまな市が催され、大晦日には「捨市(すていち)」として捨て値で商品を売り、庶民を賑わせた。
酉の市:開運招福・商売繁盛を祈願する、鷲(おおとり)神社の祭礼。鷲(おおとり)神社の祭神・日本武尊が東夷征伐の際、この神社で戦勝祝いを行なったとされることにちなんで、日本武尊の命日である11月の酉の日に開催されるようになる。市の名物である熊手は、獲物をしっかりと捉える鷲の爪ように「運を鷲づかみする」という意味や、金銀財宝を詰め込んだ熊手で「運をかきこむ」「福をはきこむ」などの意味がこめられている。
(3)祭り
①地域密着性
五穀豊穣への感謝奉納が起源で地域との密着性が強い。稲、酒、舞、儀式、祈祷などを奉納する。神々への感謝を形にしたのが祭りで、これが地域共同体の一体感造成の機能をもち、やがて楽しみや娯楽になる
神に対する人々の考え方・観念を、具体的に表しているのが「祭り」で、神々を畏れかしこむ人々は、暮らしの節目ごとに神々を迎えてもてなし、畏敬の念を示し、願い事をし、その加護に感謝した。
②祭りの一般的な進め方 神々を迎えるための場所を清浄にする→神々を祀る人々も心身を浄める→聖なる時間である夜に、あらかじめ用意された依代もしくは憑坐に神を降す→御饌(みけ=神に供える食物)や神酒(みき=神に供える酒)を供え、神をもてなす歌や舞いを奉納する→人々は神に対する願いを祝詞や歌で伝え、神は神意を託宣(神のお告げ)・卜占(占い)で示す→神々と人々が共に供えた酒を飲み供えた食べ物をたべる直会(なおらい、共食)によって、神と人との絆を強める→神が祭りの場を去ると、禁忌が解かれて祭りは終わる。
③祭りの多くは農耕儀礼と結びついてきた 年頭に豊作を祈願する祭り、農耕開始に当たっての祭り、夏の病害虫駆除のための祭り、秋の収穫を感謝する祭り、の四つの祭りが最も重要な基本となる祭り。
稲作社会では、定住し結束の強い共同体を造りだしていたので、そこで祀られる最も重要な神は「共同体の祖先神」であり、それはその土地の守り神と考えられ、共同で祀ることが多かった。神道は基本的に集団の信仰であり、後に個人の救済が求められるようになると、それは仏教に求められることになって、そこに宗教の棲み分け・役割分担が出てくる。この役割分担は現在まで続いている。
④もともと神社は、巫女の舞、五穀豊穣祈念、先祖祭祀の場だった。神道は祭りであるとも言え、日本の根っ子にある宗教である。特に稲作への感謝がある、稲は天照大神は天孫降臨の際、孫のニニギノミコト稲穂を授けた神話がある。以来、日本人の主食となった。
→神輿は神が乗る輿で、これで神が移動した。古代ユダヤの「契約の箱」の移動と類似している。(担ぎ方、白装束など) 古くは隼人の乱(720年)の時、宇佐八幡宮神霊が乗る神輿を造ったり、東大寺大仏建立のとき(749年)、宇佐八幡神が乗り物に乗って奈良に赴き、これを助けたという。これが神輿の原型となった。有名な祭りは後述する。(日本3大祭り:祇園祭、天神祭、神田祭)
(4)その他の風景
①日本人の80%以上が神道を信仰乃至は参拝しているが、自分が神道の信者で在ると自覚している人は少ない。(日本には8万以上の神社、8万人の神職者がいる)
②新年には神社に参り、結婚はキリスト教会で行い、葬儀は仏式で行う。これを当たり前の感覚で行う日本人を外国人は理解できない。
③外国人の二つの疑問
非キリスト教の日本が我々よりも発展し、統治もしっかりしているのは何故か。又エホバの神もアラーの神も知らないのに、日本人が高い倫理観を持っているのは何故か。→東北大震災の時に取った日本人の態度に驚嘆し、親切で礼儀正しくきれい好きの日本人に旅行客は驚く。
④日本語には外国語で表現できない言葉がある。お陰さま、もったいない、いただきます、わびさび、初心、切ない。これらは神道の精神(又は日本教)から来ている。
⑥伝統文化である茶道、書道、歌舞伎、能、武道などは神道的な作法や立ち振る舞いを重んじる。
ニ、神道の歴史的変遷
1、神道の起源
(1)神道は、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成された。日本における「神道」という言葉の初見は『日本書紀』の用明天皇紀にある「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」であるが、このように外来の宗教である仏教と対になる日本固有の信仰を指したものだった。
神道の成立期については諸説出されている。主な説として次の四説があげられている。
第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制の天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。
第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄。
(2)本来、狩猟・採取・農耕民族で自然崇拝と祖霊信仰が中心で祠ができ、その中で氏神を祀る社ができ、仏教に刺激され神社が生まれた。氏族の長たる天皇家の氏神の天照大御神が最高神になっていった。
1)縄文、弥生時代:自然神、偉大なものにすがり、その助けを求め、その偉大なもの(大木、石)に依代を設けてカミの来臨を仰ぐ。
2)古墳時代(前期・中期):豪族の先祖(氏神)が加わり社(祠)が生まれた。
3)古墳時代(後期):仏教の寺院建築に刺激され、神社の社が整備される。
4)飛鳥時代;天武天皇のとき、国内を統一、日本国の国号の誕生。官製の神社が造られ、記紀により豪族の氏神(先祖神)も天照大御神を中心とする体系に組み込む。
→ノア、アブラハム時代の祭壇→モーセの時の幕屋→ソロモン時代の神殿
2、神道の歴史概観
(1)概観
① 縄文時代
自然信仰、祖霊信仰が基底にある。木や石など畏きものに超自然的な畏敬を感じて仰いだ。注連縄で囲ったり、よりしろを作り神が降りるところとした。神社はもともと神の住む禁足地や磐座(いわくら)などに祭事の際に臨時で建てた祭壇であり、本来は常設の施設ではなかった。そのため、古い神社には現在でも本殿がないものがあり,社殿が建てられるようになってから、神社に神がいるという考えが一般的になった。
② 仏教伝来後
仏教に刺激されて、神社が建設されるようになる。異教文化に接して始めて自己認識をするようになり、その後、有力氏族が社を構えるようになった。天武天皇の時代から古事記が編纂され、天皇(大君)の氏神であった天照御神を頂点として神々の系列化が始まり、素朴な自然信仰から神祀道が整理さていった。
③ 神仏習合思想の時代
本地垂迹説が主流となった。日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として現れた権現(仮に現れる)であるという考え方である。天照大神は大日如来、八幡大菩薩は阿弥陀如の化身という風に。鎌倉時代中期には吉田神道などの「神本仏迹説」も登上する。
仏教との並存から神仏習合へ。神道は、戒律や教義が無く、素朴な精霊信仰を維持し、神道神学が形成されにくい性質を持つ。江戸時代、キリシタンを排除するため国民を寺に登録する寺請制度、檀家制度が実施されて、仏教勢力が強くなる。
④江戸中期から末期に国学、復古神道が生まれる。
本居宣長、平田篤胤に代表され、近世後期には、平田篤胤がキリスト教の最後の審判の観念の影響を受けた幽明審判思想を唱えたり、その門人等が天之御中主神を創造神とする単一神教的な観念を展開する。明治になり、国家神道が生まれ、戦後民主化された。
(2)神仏習合とは
①日本の神々の信仰は、本来土着の素朴な信仰で、氏や村と結びついた共同体の安寧を祈るものだったが、古代の王権が天皇を天津神の子孫とする神話のエネルギーと、仏教の鎮護国家の思想を共に受け入れた。神と仏は同じものとして考えられる。平安時代に本地垂迹説が唱えられ、鎌倉時代にはこれが一般的な通念となり、以来、江戸時代の終わりまで、日本人はカミと仏を厳密には区別してこなかった。
②習合はどういう形で進んでいったのか。 1)「神は迷える存在であり、仏の救済を必要とする」「神々にも救いが必要だ、神も仏の慈悲によって成仏できる」という考え方。インド以来の仏教の見方では、インドの神々は「天」と呼ばれるが、天はいまだ迷いの六道の一つ(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)の段階にいて、いまだ輪廻の苦の枠内にとどまる存在とされるが、その見方が、日本の神にも適用されている。日本の神も天と考えた。
2)第二の形は、「神は仏法を守護する」という考え方。これも奈良時代から始まる考えで、たとえば、宇佐の八幡神が、東大寺の大仏建立を手助けするために奈良の都に登ってきたという記事が、「続日本紀」にある。
3)「神はじつは仏が衆生救済のために姿を変えて現れたのだ」という考え方で、これは神と仏を一体と捉える最も進んだ神仏習合の形である。平安中頃からよく見られる「本地垂迹説」。「本地」はもともとの本来のあり方、「垂迹」は本地が仮の形をとって現われることで、仏教の本地垂迹説では、いうまでもなく「本地」は仏で、「垂迹」は仏が仮に神の姿をとって現われたこと。仏が日本の衆生を救うために、日本の神の姿をとって現われたわけである。 。
3、古事記と神道
(1)古事記概略―天皇家の話としての「古事記」
①和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された。紀伝体、歌謡を含み勅撰とも考えられる。歴史書であるが文学的な価値も高いと評価されている。神典の1つとして、神道を中心に日本の宗教文化・精神文化に多大な影響を与えている。日本書紀が海外向け歴史書であるのに対し、古事記は国内向け文学とも言える。
②壬申の乱後、天智天皇の弟である天武天皇が即位し、「天皇記」や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる国史の編纂を命じた。まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及旧辞など数多くの文献を元に古事記が編纂された。
前置きによると、稗田阿礼が記憶していた伝承を読み上げたものを太安万侶が書きとめたことになる。この目的は「天皇家の歴史やいわれを正しく伝えるため」であるとされている。壬申の乱後の二分した豪族たちを束ねるためには「天皇支配の正当性」を確立して国内の人心を統一する必要があったといわれる。
「古事記」というのはもともと「天皇」とその周りの貴族の位置づけ、職能を描くのが目的であり、はじめから「人間のこと」を描いていたのであって、「人間に対する神」を描いていたのではないという見方がある。「国造り」が終わった後、つまり「天照大神」の以降はむしろ人間的に「何々様」と読み替えて読んだ方が分かり易い。
一方古事記は統治の正当性を語るだけでなく、その神話の背後には宗教的真実が隠されており、又言い伝えや地域の伝承の中には、多くの時代的、社会的な背景があるとする見方がある。
③歌謡の多くは、民謡や俗謡であったものが、物語に合わせて挿入された可能性が高い。有名な歌として、須佐之男命が櫛名田比売と結婚したときに歌い、和歌の始まりとされる「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」や、倭建命が東征の帰途で故郷を想って歌った「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し うるわし」などがある。
④「古事記」の研究は、近世以降、特に盛んとなった。江戸時代の本居宣長 による全44巻の註釈書「古事記傳」は「古事記」研究の古典であり、厳密かつ実証的な校訂は後世に大きな影響を与えている。第二次世界大戦後は、倉野憲司らによる研究や注釈書が発表された。
(2)古事記上巻の神々と主な出来事
①世界の形成 「世界の形成神話」。そのはじめは、「高天原」に生成してきた神は「天の御中主の神、次に高御産巣日の神、次に神産巣日の神」と言われる。中国の「宇宙創世説」によっているとも言われている。実際、この当時すでに中国・朝鮮からの渡来人は相当の数になっており、朝廷内部に深く関与していたことはよく知られていて、中国の思想(陰陽思想)が根底にあっても少しも不思議ではない。一方、聖書の影響(三位一体の神)があったと考える学者もいる。
→しかし、古事記に聖書のような宇宙創造の神と言う概念は無い。造化三神は既に存在した宇宙の中に現れ出でた。
②世界の三区分
「古事記」では世界を「天」と「地」と「地下」の世界とに分け「天」は「天つ国」別名「高天原」となり、「地」は「芦原の中つ国」と呼ばれ、私たちが住んでいるこの地であり、「地下」は「はるかなる遠い地」であり「根の国」と呼ばれる。
③天の御中主の神 「天の御中主」の神というのは最初に現れ、すぐに姿を消す。宇宙の中心といったような意味合いがある。
④ 高御産巣日の神 「天孫降臨」の時「天皇」をこの地上に送り出してきたのはこの神だった。7Cまでは、この神が中心的な神(日本の総氏神)だったと言われ、天武・持統時代から天照に代わったという説がある。又この神は三位一体の子なる神のイエス・キリストであるという説もある。
⑤神産巣日の神 穀物から種をとり「五穀の祖」となっている。
以上の「三柱の神」を「造化三神」と呼んでいる。この3神はキリスト教の父・子・聖霊の三位一体の神観と同型だという説もある。 ⑥別天つ神(ことあまつかみ) 「うましあしかびひこじ」の神と「あめのとこち」の神.
以上の五柱の神々を『古事記』では「別天つ神(ことあまつかみ)」と呼んでいる。別天津神は拝する他の神がいない、拝されるだけの神。これらをまとめて創造の神ではないかとの見解もある。
⑦神世七代 次に「国の常立ち」と「豊雲野」の神が現れる。この神々に続いては「ういじに」「すいじに」のペアーの神が現れ,そしてさらにペアーの神々が数代生じて、いよいよ「伊耶那岐(いざなぎ)」「伊耶那美(いざなみ)」の神々が生じてくる。先の独り身の二柱を併せて「神世七代」呼ぶ。
⑧国生みの物語
イザナギ、イザナミによる「国生み」の物語
⑨いざなみ、火の神を生み、大やけどをして死に、黄泉に下る→黄泉の思想の源流。
⑩天照大御神の誕生と託宣、天皇の子孫
イザナギは黄泉から帰り、川の水で禊をするが、左の目を洗って天照大御神、右の目を洗って月読命、鼻を洗って建速スサノオの命を生む。(三貴神) 天照大御神はイザナギから「高天原を治めよ」との託宣をうけ玉飾りを賜った。太陽神、皇祖神、日本の総氏神として祀られている。天照の孫がニニギノミコトで天孫降臨した。ニニギのミコトの3代孫が神武天皇である。
⑪天の岩屋戸物語は再生信仰の源とも考えられる。高天原の神々が心を合わせて天照大御神を岩屋から導き出す。
⑫八俣のおろち、大国主の物語。因幡の白兎、蘇生神話、根の国の「求婚説話」(求婚に当たっての試練)
⑬天つ国からの使者と国譲り。
⑭天孫降臨 天照大御神は、孫のニニギノミコトを「葦原中国を治めよ」「この鏡を私の御魂と思って祀利なさい」との神勅を授けて高千穂峰に天下らせた。ニニギノミコトは授かった三種の神器をたずさえ、アメノコヤノミコトなどの神々と共に高天原から地上に向かう。途中猿田ヒコノカミが道案内をする。
⑮海彦と山彦の話
⑯とよたまひめ 一方、「とよたまひめ」はその妹の「たまよりひめ」をおくりその子の養育にあたらせた。こうして成長した「うがやふきおえず」の尊はそのまま乳母であった「たまよりひめ」と結婚してしまいい、四人の子供をもちますが、その中に「かむやまといわれひこ」の尊がおりました。この尊が「神武天皇」となるわけで、「古事記」はここから「中の巻き」となっていく。
イザナギ→ 天照 →孫のニニギノミコト→ 海幸彦→ うがやふきおえず→かむやまといわれひこの尊(神武天皇)
(3)天之御中主神
①日本神話の神。天地開闢に関わった五柱の別天津神(ことあまつかみ)の一柱である。「古事記」では、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神であるとしている。(日本書紀では国之常立神 が初めての神となる)その後高御産巣日神、神産巣日神が現れ、すぐに姿を隠したとしている。この三柱の神を造化三神といい、性別のない「独神」という。
『日本書紀』本文には記述はなく、第一段で6つ書かれている一書のうちの第四の一書にのみ登場する。そこでは、まず国常立尊、次に国狭槌尊が表れたと書き、その次に「また、高天原においでになる神の名を天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)という」と書かれている。この記述からは、前に書かれた二神とどちらが先に現れたのかはわからない。なお、他の一書では、最初に現れた神は国常立尊(本文、第一、第四、第五)、可美葦牙彦舅尊(第二、第三)、天常立尊(第六)としている。
『古事記』、『日本書紀』とも、その後の事績は全く書かれておらず、中国の天帝の思想(天上の最高神、神)の影響によって机上で作られた神であると解釈されてきた。 しかし天之御中主神には倫理的な面は全く無く、中国の思想の影響を受けたとは考え難い。天空神が至高の存在として認められながらも、その宗教的現実性を喪失して「暇な神」となる現象は、世界中で多くの例がある。
②中世に伊勢で発達した伊勢神道においては、神道五部書などで、伊勢神宮 外宮の祭神である豊受大神の本体が天之御中主神であるとされた。これは、伊勢神道の主唱者が外宮の神職度会氏であったため、外宮を始原神である天之御中主神であると位置づけることで、内宮に対する優位を主張するものであった。伊勢神道を中心とする中世神話において、天之御中主神は重要な位置を占める神格である。
平田篤胤は禁書であったキリスト教関係の書籍を読み、その万物の創造神という観念の影響を強く受けた。そして『霊之御柱』において、この世界の姿が確定する天孫降臨以前の万物の創造を天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の造化三神によるものとした。この三神は復古神道においては究極神とされ、なかでも天御中主神は最高位に位置づけられている。又平田篤胤がキリスト教の最後の審判の観念の影響を受けた幽明審判思想を唱えたり、その門人等が天之御中主神を創造神とする単一神教的な観念を展開する。
③日本は八百万の神々の国であると誰もが思っているが、雑多な神々の国ではない。少なくとも神道関係者の間では、秩序付けようとする試みが行われてきた。儒教の天、道教の太極、仏教の大日如来という宇宙の真ん中に位置する全知全能の神という概念の影響を受けて、天之御中主神を宇宙の真ん中に位置する全知全能の神の中心的な神と位置づけ、神社信仰や神道をきちっとした体系としてとらえようとしてきた。
たとえば、伊勢神宮外宮の神官の度会(ワタライ)氏が創始した神道説に基づく度会神道や、朝廷の神祇官を務めた卜部家の子孫、吉田兼倶(カネトモ)が大成した神道説に基づく吉田神道などがそうである。 また、江戸時代の国学者によって提唱された復古神道(仏教や儒教の影響を排除した古代からの純粋神道を唱える神道説)などでも中心的な神格とされている。
13世紀に成立したとされる両部神道書「中臣祓訓解」では、神を「天然不動の理」「法性身」として「大元尊神」(中国の老子の大元の節に基づくもので、天地に先立ち、陰陽を超え、始めも終わりもなく、宇宙のすべてに顕現する)と呼び、その顕現が「天照皇大神」であるとする。
他方、この書の影響を受けた13世紀の伊勢神道(度会神道)では、国常立尊を「大元神」あるいは「虚空神」と呼んで、世界生成の根元に位置づけていた(「豊受皇太神御鎮座本記」「天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記」)。これを受けて吉田神道は、国常立尊を太極と同じと考え、太元尊神と名付けた。(遠藤潤「神観念の歴史」)
乙巳の変で朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上し、『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われた。まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に、『古事記』が編纂された。その後に、焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に、さらに『日本書紀』が編纂された。
5、天皇と神道については後述する。
6、神道の各派
神道の分類
4)教派神道:神道十三派、教祖・開祖の宗教的体験にもとづく。創唱宗教的色彩が濃い。
5)古神道:原始神道(縄文神道)。江戸時代の国学によって、儒教や仏教からの影響を受ける前の神道が仮構された。
以上のような分類をすることができるが、今日、単に「神道」といった場合には神社神道を指すことが多い。また、何に重きを置くかによって「祭り型」「教え型」という分け方も提唱されている。
神道諸派
伯家神道(白川神道・白川伯王家)、伊勢神道、吉田神道、両部神道、山王一実神道、法華神道、土御門神道(天社土御門神道)、吉川神道、垂加神道、出雲神道、物部神道、忌部神道、復古神道(古道)、国家神道、神社本庁、教派神道。
(1)古神道
①古神道とは
日本において外来宗教の影響を受ける以前に存在していたとされる宗教をいい、復古神道、原始神道、縄文神道ともいう。古神道とは神社神道と区別する概念で江戸の国学者が提唱した。仏儒などの外来宗教の影響を受ける前の日本民族固有の精神(惟神の道)に立ち返る。
賀茂真淵、本居宣長(国学)から始まり、平田篤胤らが大成する。明治維新の尊皇攘夷思想に影響する。神仏分離、廃仏毀釈、神道国教化に影響。
②古神道とはアニミズムである。自然崇拝で日本風土がもたらしたもので、古代の日本人が持っていた信仰である。
神話時代でまとまったものは古事記の神代か、日本書紀の神代、あとは風土記などに断片的に伝わっているだけである。新たな古文書として「ホツマツタヱ」や「竹内文書」というのがあり、神話や初期天皇の時代を記紀よりも遙かに詳しく語っている。しかし、これらの文献はすべて後世の偽作と言われ、竹内文書は戦前にある学者が一部を分析し、偽書であると断言している。
大和時代から、中国の仏教、儒教、陰陽五行説といった中国思想がたくさん入ってきた。陰陽道はそれらの中国思想を中心に日本で作り上げられたものだが、陰陽道由来の行法、まじないが多く古神道と呼ばれるものに入っている。太極、陰陽、五行(木・火・土・金・水)、神仙などといった言葉を使っているものは中国起源であると見て間違いない。また仏教からは密教の考え方が入っている。
③古神道の思想
a物質ではない生命の本質としてのマナの概念、b常世(神や悪いものが住む)と現世(人の国や現実世界)からなる世界観、c禁足地や神域の存在とそれぞれを隔てる端境とその往来を妨げる結界、d祈祷・占い(シャーマニズム)による祈願祈念とその結果による政(まつりごと)の指針、e国の創世と人の創世の神話の発生、などがあげられる。民俗学などで提唱された。
江戸時代に発達した復古神道の流れの国学において、古神道という概念が初めて提示された。当初の定義では「記紀などの古典に根拠を置き儒仏の要素を混じえない神道」が古神道、「記紀などの古典に根拠を置かず儒仏思想を混じえた神道」が俗神道であるとされ、古神道と俗神道が対概念であった。
④異界観
実際に、神社や島や森林を含めた全体を禁足地としている、宗像大社「沖ノ島」のような場所も多くあり、その考えは神社神道の建築様式の中などにも引き継がれているが、例えば、本来は参道の真ん中は神の道で禁足となっている。
一般家庭にも結界はあり、正月の注連縄飾りや節分の柊鰯なども、招来したい神と招かれざる神を選別するためのものでもある。また、集落などをつなぐ道の「辻」には石作りの道祖神や祠や地蔵があるが、旅や道すがらの安全だけでなく、集落に禍や厄災を持ち込まないための結界の意味がある。
⑤先祖崇拝
「お盆」といわれるものはそのしきたりや形式は古神道の先祖崇拝であるが、仏教伝来以来の神仏習合の影響により、寺で行われ僧が執り行うことなっているため、一般に仏教行事として認識されており、古神道としての側面が曖昧になっている。仏教は本来、輪廻転生し徳を積めば最後は開眼し仏となる教えであり、「特定される個人としての死」はないので先祖崇拝はなく、「盂蘭盆」が正式な仏教行事で釈迦を奉るものである。現在では、特定の仏教宗派に属さなければ、盂蘭盆に触れる機会は少ないことも、「お盆は仏教行事という認識」につながっている。
⑥祈祷や占い
祈祷や占いは現在の神社神道でも受け継がれ、古来そのままに亀甲占いを年始に行う神社もある。大正時代まで盛んであった祭り矢・祭り弓も日本の価値観や文化(目星を付ける・的を射る・射幸心)に影響を与え、その年の吉凶を占うことから、「矢取り」に選ばれた者は的場に足繁く通ったという。
また、巫女の舞や庶民や芸能の芸として現在に受け継がれる「神事としての興行(相撲)」や舞(纏舞い・獅子舞)や神楽(巫女の舞など)や太神楽(曲独楽・軽業)なども神に捧げ神を和ごませる儀礼としての祈祷である。
➆近現代の古神道
江戸時代末期には、尊皇攘夷思想や平田国学の隆盛と連動して世に出た。また篤胤以降の江戸国学が単なる国文学に傾斜するのに反発したり、近代の国家神道が宗教性を忌避して国民道徳へと変貌するのに飽きたらず、篤胤の研究範囲に内在していたスピリチュアリズムの部分を追求するなどした諸派は、その後秘教神道ともよばれ、その教義は神道霊学と称されるようになっていった。例外もあるがこれらの諸派も多くは古神道を標榜している。
現在においては、新宗教で古神道を名乗る宗派も、上記記述の宗派の流れを受け継いだものであって、江戸時代以前から存在していた神道の宗派とされるものには、そもそも、「古神道」とは称されていなかったものもある。
伝統的な古神道では平田篤胤ほかが学頭を務めた皇室神道の伯家神道から受け継いた儀礼や行法がみられるが、この系統ではない出雲神道(出雲大社教)、巫部神道(神理教)、九鬼神道、修験道に由来する行法や教団も存在する。
⑧平田篤胤 「神道の父」「神道」を確立させた。「仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教」を研究し仏教・儒教などが混ざっていない、「純粋な神道」を求め、神仏分離の基の一つになった。明治維新の陰ながらの立役者。
(3)山王神道・両部神道
①「神道」としての独自の思想や教理の確立は、仏教側から被せられた神仏習合、とりわけ本地垂迹説からどう脱するか、脱してどう独自の神道理論を打ち立てるか、にかかっていた。この思想をどう覆し、神の主体性を確立するか、主張するか、であった。
「神道」という言葉を冠して、すなわち神の側の立場から、最初に現れた神道は「山王神道」で、これは、鎌倉初期、比叡山山麓にある、比叡山の守護神である日吉山王神社を中心に起こった神道思想である。しかし山王の神は、釈迦が、日本の衆生を教化するために現れたものという、いまだ本地垂迹説に依ったものだった。しかし、鎌倉末期から南北朝期になると、この中から「本地である仏より、垂迹である神の方が重要だ」という主張が出てくる。これが天台系の神道論である。
②真言系では「両部神道」が出てきた。「両部」というのは、いうまでもなく、曼陀羅の胎蔵界と金剛界のことで、両部神道ではこの両界を伊勢の内宮と外宮に当て嵌める。すなわち内宮の天照皇大神が胎蔵界、外宮の豊受皇大神(とゆけのおおみかみ)が金剛界に当たるという。密教の曼荼羅は無数の諸仏を体系づけるものであるので、やはり、多数の神々を体系づける必要に迫られた神道にとって、曼荼羅は有効な方法を提供するものだった。
以上二つの、天台系・真言系の「仏教系の神道理論」に対して、「神道自体の自立した理論」をもって仏教に対抗しようという傾向も、同じ頃から顕著になってくる。この傾向を代表するのが「伊勢神道」や「吉田神道」である。
(3)伊勢神道
①伊勢神宮は、天照皇大神を祀る内宮と、豊受皇大神を祀る外宮からなっているが、外宮の豊受皇大神は、御饌津神(みけつかみ)とも呼ばれて、内宮の天照皇大神の食事を用意する神(天照皇大神に奉仕する神)とされて、天照皇大神より低い位置に置かれてきた。
これを不満とした渡会行忠(わたらいゆきただ)・家行ら外宮の神官たちが、『神道五部書』と呼ばれる書物などを著して内宮に対抗し、自分たちの地位を高めようとした。その運動に伊勢神道は始まる。
②すなわち、外宮の豊受皇大神を、天地開闢に先立って出現した天之御中主神や国常立神と同じ神として、内宮の祭神である天照皇大神をしのぐ普遍的な神格(絶対神)とし、さらに、「万物を養い育てる徳がある」として、食物の神から農業をはじめ生産全体を司る神に発展させるなど、内宮に対抗して外宮の地位の引き上げを目指した。こうした運動の中で、仏教ばかりでなく、陰陽道なども取り入れながら、神道独自の理論をつくる努力が始まった。
「仏法の息を屏(かく)し、神祇を再拝し奉れ」などと、仏教排除の立場も打ち出されているが、それは措くとして、その後の神道を貫く柱としての、「正直(真っ直ぐ)」や「清明(清く明らか)」を尊ぶ倫理観や、「大日本国は神国(神の国)なり」とする神国意識などが、既にここに、現れてきている。
③この流れを汲むのが、鎌倉末期から南北朝期の、後醍醐天皇と親しかった、慈遍や北畠親房。慈遍は比叡山の天台僧だが、仏より神が勝れていると考えるようになる。なぜ神が勝れているのか、神道は根源の純粋性の立場にたち、仏教はその根源から万物を展開して多様の世界、すなわち「迷いの世界」になった、として、神道の「原初の純粋性」に価値を置く。そしてその純粋性を守る者として天皇を立てる。
北畠親房は、南北朝分裂の際、南朝側の指導者として転戦し、『神皇正統記』などを著した公卿(上級貴族)として有名だが、日本を神国とする伊勢神道の理論を、天皇中心を中心に置く政治的イデオロギーと結びつけて、後世にまで大きな影響を与えている。純粋性・清明などに価値を置き、天皇制と結びつける、というのは、現在にまで至る神道の特徴。
(4)吉田神道
①吉田神道とは、室町時代京都吉田神社の神職吉田兼倶(1435~1511)によって大成された神道の一流派。唯一神道、卜部神道、宗源神道ともいう。吉田神道は、室町時代、京都の神道家・吉田兼倶に始まる吉田家が唱えた神道の一流派であるが、実際は吉田兼倶がほとんど一人で集成したと見られている。
吉田神道は、仏教・道教・儒教の思想を取り入れ3教一致思想を基盤とする総合的な神道説とされる。吉田兼倶は「根葉花実論」という本を著して、「吾が日本は種子を生じ、震旦(中国)は枝葉に現はし、天竺(インド)は花実に開く。故に、仏法は万法の花実たり。儒教は万法の枝葉たり。神道は万法の根本たり。彼の二教(仏教と儒教)は皆是れ神道の分化なり」と主張している。神道が根であり、儒教はそこから生えた枝葉であり、仏教は枝先の花や実だ、という。ここで明確に、「神道中心・日本中心」の立場を打ち出した。吉田神道は、国常立尊を太極(宇宙の中心)と同じと考え、太元尊神と名付けた
権勢に乗じた兼倶はさらに神祇管領長上という称を用いて、「宗源宣旨」を以って地方の神社に神位を授け、また神職の位階を授ける権限を与えられ、吉田家をほぼ全国の神社・神職をその勢力下に収めた神道の家元的な立場に押し上げていった。
(5)江戸時代―儒学と国学の神道 「主流派の神道」は、江戸時代に入ると、大きくは、儒学と結びついた神道論と、国学の中での神道論の、二つの系統に分かれる。
①儒家神道 1)吉川神道:吉川惟足(これたり)が唱えた。吉田神道が唱えた根葉花実論の「神道は万法の根本である」という主張を受け継ぎ、神道を宇宙の根本原理とし、宇宙の根本神である国常立尊(くにとこたちのみこと)などの神々がすべての人間の心の中に内在しているという「神人合一説」を唱えた。
そのうえ、儒教の朱子学の思想を取り入れて、神道を「天下を治める理論」とし、とりわけ、神道を「君臣の道」として捉え、皇室を中心とする君臣関係の重視を訴えるなど、後の「垂加(すいか)神道」を始めとする尊王思想に大きな影響を与えた。
2)垂加神道:吉川惟足に学んだ山崎闇斎(あんさい)(1618~1682)が唱えた。臨済宗の僧侶であった山崎闇斎は、儒学と伊勢神道・吉川神道を学んで垂加神道を開いた。垂加神道は、朱子学を基調として陰陽道や気学を取り入れ、封建体制の遵守、皇室の護持を強調、激烈な尊王思想を中核に据え、幕末の尊皇攘夷思想への道を開く。
神道とは、「天日一体の皇祖神、天照大神の子孫である天皇陛下を輔翼して臣子の分を尽くす」信仰であると断じ、天皇崇拝、皇室の絶対化を主張した。また、「敬」を人の最も大切な徳とし、敬を全うすれば天地と合一できる「天人唯一の理」を唱えた。これは水戸学の尊王論や国粋主義思想に大きな影響を与え、幕末・明治に至る尊王攘夷思想のバックボーンを形成した。
②国学の中から現れた神道論 1)国学とは 「国学」とは、それまで主流であった儒教や仏教をベースとする学問に 対 抗して、日本の古典を研究し、儒教や仏教の影響を受ける以前の日本にあった独自の文化・思想や精神世界(古道)を明らかにしようとした学問である。その中から、「復古神道」と呼ばれる神道思想が出てきた。
その代表者は、賀茂真淵や本居宣長、平田篤胤ら。ちなみに契沖(1640~1701)の学灯を継いだ荷田春満(1669~1736)・賀茂真淵(1697~1769)本居宣長(1730~1801)平田篤胤(1776~1843)ら国学の四大大家が行ったことは、外来文化(儒教や仏教)の影響を受ける以前の日本固有の姿を探求し、本来の神道の心を復活させようとしたもの。これは復古神道と呼ばれ、明治維新以降の国家神道へとつながる
2)賀茂真淵:「万葉集」などの古典研究を通じて、「国意考」などの著作で「古道」の存在を訴える。「神道つまり惟神(かんながら)の道こそ、日本古代から伝わる純粋な天地自然の大道であったが、その精神は、後から伝わった仏教と儒教によって混濁させられた。国学者の責務は、古典研究によって神道の純粋さを取り戻すことである」と主張する。
3)本居宣長:賀茂真淵の薫陶を受けた本居宣長は、「古事記」を研究して大著「古事記伝」を著し、古事記や日本書紀からみいだされた「神の道」を示して、日本固有の神道の復活を目指す。
4)平田篤胤:本居宣長の書に啓発され、古代史を明らかにし、「皇道(すめらみことのみち)すなわち天皇が行なう政治の正統性」を天下に主張する一方、死者が赴く幽冥界は大国主命が司る世界だという「大国主命幽冥界主宰神説」を展開した。この「大国主命が幽冥界を主宰する神であるとする説」は、篤胤以降、復古神道の基本的な教義となり、近代以降の神道、とりわけ「古神道系」と呼ばれる神道に大きな影響を与える。
(6)国家神道については後述する。
(7)教派神道 一方、こうした国家と結びついた神道(国家神道)と別に、帝国憲法の「信教の自由」の次元での宗教は、神道、仏教、キリスト教に大別され、宗教として活動を許された神道がある。これは、幕末期に起こり、明治政府に公認された、神道系の新宗教教団のことで、「教派神道」と呼ばれ、当初14団体あったが、途中で天理教が離脱し、13団体で定着した。「神道十三派」とも呼ばれる。
これらは、復古神道系、富士信仰や御嶽信仰の山岳信仰系、禊系、儒教系、教祖の体験と教えに基づく黒住教・天理教・金光教などの純教祖系、に分類される。現在は天理教が抜けて大本が加盟している。大本は一般には大本教というが、教をつけない大本が正式の名前である。
(8)現在の神道 ➀1945年、敗戦の年に、GHQは、国家と結びついた神道の廃止と信教の自由の実現を命ずる指令を出した。いわゆる「神道指令」。これが、戦後の宗教行政を大きく変えることになった。神社はそれぞれが宗教法人となり、またその多くは連合して「神社本庁」という組織をつくっている。
「神社本庁」は宗教法人法にもとづく包括宗教法人の一つである。包括宗教法人の一つではあるのだが、気分は旧内務省の外局・神祇院の後継的存在のようで、伊勢神宮を本宗として、約8万社ある日本の神社のうち7万9千社以上が加盟していて、包括下にある神社の管理・指導や、神職の養成、神道の宣揚や広報活動に加え、政治運動として、元号法や国旗国歌法の制定などを働きかけたほか、皇室の男系継承の維持、首相の靖国神社公式参拝の推進、などを行ない、また、神道政治連盟や日本会議といった団体を通じて、自民党を中心とした一部の保守政治家に強い影響力を持っている。現在のターゲットは憲法改定。
他方、教派神道系とされる天理教・金光教・大本などの新宗教も、伝統的な神々の信仰を受け継いで、活発な活動を展開している。
②神社は、今、明治以来数十年の特殊な時代が終わった後、伝統的な信仰の中心として人々に親しまれ、結婚・受験・交通安全などの祈願を行なう場になっているが、教説や教団組織の乏しいものが多い。神道は本来はそういうものだから、それはそれでいいが、祭りを支えていた地域社会が近代化の中で解体していく中で、新たな対応が模索されているというところがある。
他方、神道的な儀礼が、宗教行為に属するのか、民俗的な習俗であるのかを巡っては、信教の自由や政教分離、また、かつて神道が国家との関わりで果たした役割の記憶などもあって、国民の間から絶えず問題が提起され、裁判で係争中のものも少なくないが、これも、克服されなければならない課題である。
(9)まとめ 皇室神道(宮中祭祀);皇居内の宮中三殿を中心に行われる皇室の神道。
神社神道:神社を中心に、氏子・崇敬者などによる組織によっておこなわれる祭り(祭祀儀礼)を中心とする信仰形態。
民俗神道:民間神道ともいい、古来から民間でおこなわれてきた信仰行事で、山の神・田の神・竈神・道祖神などを祀り、仏教や道教などとも習合している場合が多い。修験道などもこの系列に入る。。私たち庶民に馴染みがあるのは、先の神社神道と、この民族神道である。
教派神道(神道十三派):教祖・開祖の宗教的体験にもとづく宗教。
古神道あるいは原始神道:江戸時代の国学によって、儒教や仏教からの影響を受ける前の神道が研究され、復古神道・古道・皇学・本教などと称された。国学色を排除して、純神道・原始神道、縄文神道という場合もある。
以上の通りだが、特殊なのが靖国神社である。靖国神社は、幕末維新の志士や、戊辰戦争・西南戦争の政府軍側戦死者を祀った東京招魂社(官軍側のみ)、で、この招魂社を、明治天皇の命名で「靖国神社」と改め、その後の日清戦争・日露戦争から、日中戦争・太平洋戦争までの軍人・軍属の戦死者を祀った神社で、国家神道の中核といってもいい神社で、A級戦犯を合祀していることや、戦前からの皇国史観を主張していることなどから、ときにいろいろ議論が起こる。国のために殉じた「英霊」として246万数千人の戦死者が祀られている。
7、有名神社とその概要
(1)22社制度―平安時代中期に朝廷から特別の崇敬(奉幣)を受ける慣習
伊勢、岩清水、加茂、松尾、平野、稲荷、春日、大原野、大神、石上、大和、住吉、広瀬、龍田、丹生河上、貴船、広田、吉田、梅宮、北野、祇園、日吉。
(2)明治期―官社(官幣社と国幣社)と諸社に分け、これを大社・中社・小社に分ける。
官幣大社→札幌神社、鹿島神社、香取神社、明治神宮、氷川神社、熱田神宮、石上神社、春日神社、岩清水八幡宮、加茂御祖神社、加茂別雷神社、伏見稲荷大社、平安神宮、住吉大社、出雲大社、赤間神社、宗像大社、宇佐神宮、霧島神社、など64社。
別表神社→戦後、旧官国幣社が当てられる。神社本庁の管理をあまり受けない。約350社。
式内社→延喜式神名帳に記載されている神社で、2861社。内官幣社は573社、国幣社は2288社。
天皇の四方拝 神宮(伊勢)、天神地祇、神武天皇陵、先帝三代陵、
氷川神社、加茂神社、岩清水八幡宮、熱田神宮、鹿島神宮、香取神社。
(3)著名神社
ⅰ伊勢神宮
垂仁天皇26年創建。主祭神は天照大御神。「別格」の神社で、ただの「神宮」とも呼ばれる。20年ごとの式年遷宮が行われる。外宮には食物神である「豊受大御神」が祭られている。
ⅱ出雲大社
創建は神代とされる。主祭神は大国主大神、本殿北西には、御客座五神(天之御中主審など造化5神)が祀られている。ここの神は「大国主大神」。本来はここだけが「大社」と呼ばれていたことが『延喜式』に見られる。
天から下ってきたとされる侵入勢力(伊勢神宮)と、地でそれを迎え撃った在地勢力・土着勢力(出雲大社)、という対照的な性格を持つ二つの神社である。神宮と呼んでいいのは伊勢神宮だけ、大社と呼んでいいのは出雲大社だけ、といわれるほど、この二つは対照的に日本を代表する神社である。→縄文と弥生の葛藤のようなもの
明治時代、日比谷に、国家神道のセンターともいうべき、「神道事務局神殿」
というのを設けるに際して、その祭神を巡って神道界に激しい論争が起こった。伊勢神宮派が多い事務局は、天地開闢に際して現われた造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)と天照皇大神の四柱を祀ることとしたのだが、それに対して出雲派は、大国主大神を加えた五柱にすべきだと主張した。収拾がつかなくなって明治天皇の勅裁を求めましたところ、明治天皇いわく「大国主はいらん」ということで、造化三神と天照皇大神の四柱だけを祀ることに決まって、出雲派が敗北したことがある。
ⅲ伏見稲荷大社(稲荷神社) 主祭神 ウカノミタマ(宇迦之御魂大神)他4神。神体は稲荷山。秦氏の祖霊として創建。一般に「お稲荷さん」で親しまれ、祭神は「食物、稲の神、五穀豊穣の神」とされる「うかのみたま」。全国に3万の社が存在する。稲荷信仰は「食物、穀物の神」とされる一方、屋敷神ともされたりして氏族の守護を司るとされ、今日では「商売の神」として多くの信仰を得ている。秦氏創建で、イナリはINRIでイエスを現すという説もある。稲荷神社と八幡神社で総神社の90%を占める。これだけ多くの信仰を集めるのは、実際に、病気の治癒、事業の成功、家族円満、五穀豊穣などの利益があるからである。
ⅳ宇佐八幡宮 725年創建。「宇佐神宮」が本名だが、一般に「八幡様」と呼ばれて親しまれている。祭神は応神天皇で八幡神として称える。(他に祭神に像三女神、神功皇后)だが、応神天皇が拝んでいたものを拝んでいたのではないか。岩清水八幡宮、鶴岡八幡宮と並んで三大八幡宮で、44000社ある八幡宮の総本社。秦氏創建。
一般に「源氏の氏神」として有名で「八幡太郎義家」などと名前にまで使われていた。源氏の氏神とされ「戦の神」とされている。宇佐八幡宮について 八幡宮は一番多くの神社を持つ。次は稲荷神社。
八幡宮は秦氏一族の創設にかかわる。秦氏が中央アジア、中国、韓国(新羅)を通って応神天皇のとき弓月一族(19000人)が日本に渡来。八幡宮の日本の柱はソロモンの神殿と瓜二つでお神輿発祥の神社。白服を着て契約の箱を担いだ旧約の記述と似ている。
ⅴ大神(おおみわ)神社
神話時代の創建。日本最古の神社。主祭神は大物主大神で神体は三輪山。従って本殿が無い。稲作豊穣、疫病除け、酒造り、日本国の守護神。
ⅵ熱田神宮
景行天皇43年創建。主祭神は熱田大神、神体は草薙剣。ここは三種の神器の一つである「草薙の剣」が祭られ、主神は「熱田大神」とされ、これは要するに「天照大神」ということになる。その他「すさのうのみこと」と、「日本武尊(やまとたけるのみこと)」が祭られている。
ⅶ鹿島神宮
神武天皇元年創建(伝承)、主祭神はタケミカツチの大神(建御雷神)。常陸国一宮、蝦夷の平定神、武神として崇敬される。鹿を勅旨とする。下総国一宮の香取神社と深い関係にある。又西の弥生系に対し東の縄文系を代表する。
ⅷ春日大社 神護景雲2年768年創建。主祭神は春日神。神体は御蓋山。藤原氏の「氏神社」。「春日祭り」で有名。祭神は「大国主」に国譲りの談判に行った「たけみかずち」と、『日本書紀』の方で「たけみかずち」と共に談判に行ったとされる「ふつぬしの神」で共に「戦の神」とされている。全国に1000社ある春日神社の総本社。
ⅸ諏訪大社 創建不詳。主祭神は大国主の国譲りの話しに出てくる「たけみなかた」。御柱祭、御頭祭などの神事。イサク献祭に類似した話、守屋山の存在など旧約聖書の内容と酷似している。
ⅹ富士山本宮浅間神社
第11代垂仁天皇3年創建。主祭神はコノハナサクヤヒメ。神体は富士山。浅間神社の総本社。本宮の本殿は徳川家康による造営で「浅間造」という建築様式で国の重要文化財。「湧玉池」は国の特別天然記念物。配神はニニギノの命。山宮神社は元宮。
ⅺ熊野神社
一般に「熊野神社」と呼んで全国約3000社ある神社で、この「熊野信仰」の母体となっている神社は紀州の「熊野三山」つまり「熊野本宮大社」と「熊野速玉大社」「熊野那智大社」をさす。皇族・貴族の熊野参詣で著名。
祭神は「本宮」が「けつみこ大神」とされ、この本体は「すさのう」とされている。
朝廷の人々は、熊野の海岸一帯を「あの世に繋がる地」であると考えていた。日本書紀で伊弉冉尊(いざなみのみこと)を葬った地とされ、また古くから修験(しゅげん)の地としても知られてきた熊野だが、その名が広く知られるようになったのは院政の時代、上皇や女院が熊野を参詣する熊野御幸がきっかけといわれている。その後、院政が衰退した後も熊野信仰は衰えず、熊野参詣は武士や一般庶民へと広まっていく。
ⅻ岩清水八幡宮
860年創建。京都の守護神とされたりしたことで皇室との結びつきを強めた。鬼門(北東)を守る延暦寺に対し、裏鬼門(南西)を守護する。岩清水祭は葵祭、春日祭と並んで三大勅祭の一つ。の一方、源義家が石清水八幡宮の社前で元服し「八幡太郎」を名乗ったことから八幡神は源氏の守り神とされるようになり、やがて武士全体を助ける武神として全国に広まっていく。水を出したモーセのような逸話がある。
⒔鶴岡八幡宮
1180年創建。岩清水八幡宮から勧請。(宇佐→岩清水→鶴岡へ勧請。分祀・分霊・合祀もある) 源氏の氏神、鎌倉幕府の守護社。
⒕太宰府天満宮
919年創建。俗称「天神様」で「菅原道真」が祭られている。「道真の怨念によるたたり」であるとされ、道真を「神として祭って」たたりを鎮めた。「雷」だったので「天神」と呼ばれたわけである。後にこの道真は書の達人であったところから「学問の神」とされていった
15神田神社
730年創建。一般には「神田明神」。ここの祭神は、一宮が「おおなむち、だいこく様」、二宮が「すくなひこ、えびす様」、三宮が「平将門」。元来は「お おあなむち」が祭られたもののようだが、平将門の祟りがあったと見られた時、荒れ果てていたこの社に「合併して祭る」ということで祭られて以来興隆し、徳川時代には「天下祭り」と呼ばれていた。明治時代に一度、平将門は「別にされ」「すくなひこな」が合祀されましたが、昭和時代になって氏子の強い要求で再びここに祭られるようになった。神田祭は江戸三大祭の一つ。
⒗加茂神社
上加茂神社と下加茂神社の総称。加茂氏の氏神を祀る神社。京都最古の神社で京都の守り神。葵祭で有名。
17八坂神社
656年創建。祭神はスサノオノ命、クシイナダヒメの命。2300の総社。
18平安神宮
1895年創祀。桓武天皇、孝明天皇が主祭伸。
19橿原神社
主祭伸は神武天皇とその皇后。1890年創建。官幣大社、勅祭社、別表神社。
20湊川神社
主祭伸は楠木正成。配神は息子の楠木正行。1872年創建。なお四條畷神社の主祭伸は楠木正行。
21猿田彦神社
主祭神は猿田彦大神。土着のカミ。ニニギの命が降臨したとき、国津神の猿田彦が道案内をした。また、後孫(大田命)が伊勢神宮の土地を献上したという話がある。
22浅草神社
625年頃起源。主祭神は土地の人物(ハジノアタイナカトモ、浜成、武成)。東照宮、大国主命を合祀。観音信仰を持つ。浅草寺に隣接。
三、日本教とは何か、日本教の形成に神道は如何なる影響を与えたか
1、日本教とは何か
(1)問題提起-外国人の三つの疑問
1)エホバの神もアラーの神も知らない日本人が、自国よりも高い文明を持ち、安定した統治を行っているのは何故か。
2)東北大震災で2万人の人々が犠牲になり、未曾有の被害を蒙ったのに、キリストの神を知らない日本人が、暴動も略奪も争いもなく、秩序整然と行動し常に平常心を失わなかった。又、旅行に来て、日本人の親切さ、礼儀正しさ、清潔さ、勤勉に驚く。このような高い倫理観は一体どこから来ているのか。
3)新年には神社に行き、お盆にはお寺に行き、クリスマスには教会に行く。神社で753を祝い、教会で結婚し、お寺で葬式を行い、何の矛盾も感じない日本人の宗教観とは一体何か。
有識者の見解
評論家の竹田恒泰氏は、「アメリカが聖書の上に立っているように、日本は記紀の上に立っている」という。日本は3Cに大和政権が形成され、4Cに統一政権が出来上がったといわれるが、この大和政権は、戦争によってではなく、自然体の中で出来上がった。外国では、ヨーロッパでもアジアでも、戦争によって政敵を打倒して統一政権ができるのが相場だが、古事記の大国主の国譲りに見られるように、日本は平和裏に政権樹立できた稀有の国だという。
山本七平氏は神話についてかく語っている。
神話とは民族のアイデンティティであり、事実(史実)ではないかもしれないが真実(当時の社会的思想背景が反映されている)がある。すべての国には神話があり、その最たるものが聖書の創世記である。旧約聖書に世界観、人生観、歴史観があるように、古事記には、自然観、死生観、歴史観があり、日本の精神性は古事記に負うところが大きい。
→たとえば、自然への畏敬の念が、感謝の精神や他者への思いやりになり、和の思想になる。黄泉の国の怖さ(イザナミの命の体験)と、天照大神の再生(天の岩戸)は、日本人の死生観を表している。
日本人は、古来、目に見えぬ何かに対して、畏敬の念を抱く心、良心作用を発揮してきた。日常には、一種霊的感性に基づく慣習が違和感なく溶け込んでいる霊的感受性が強い民族である。「お蔭様」「世のため人のため」という日本語は日本人の倫理観を端的に現している。
→伝道者の書3・11「神は永遠を思う心を人に付与された」
マタイ22・37「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ 」「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」
これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」
→一神教との対比で考えれば、日本の宗教は雑教文化といえる。霊的には異型の様相を示している。寛容性という優れた文化と、曖昧であるという低い文化が混在している。
(2)日本の起源・古代史を辿る―ここから日本のルーツと原点を探る
①縄文時代
1)人類・日本人の起源:20万年前、人類の祖先(ホモサピエンス)は、アフリカが起源となり、10万年前、ヨーロッパ(西ルート)、アジア(南ルート)、アルタイ・シベリア(北ルート)の3方面へ移動する。(ホモサピエンスの前は猿人、原人そして新人と続く)
日本に、2万年~1万5千年前の石器時代があった。(1万6000年前の旧石器時代の大型石ヤリが長野県神子柴遺跡から出土している)
2)縄文時代(BC12000~BC300):1万2000年前頃、縄文人は、氷河時代にシベリア方面から渡来した。バイカル湖近くのブリアート人などが、サハリン、北海道を経由して本州に渡来した。バイカル湖近隣のスリダ遺跡が有名で、これら渡来人を古モンゴロイドという。
縄文時代は1万年以上続いた。前期(BC12000~3500年)、中期 (3500~2500年)、後期(2500~300年)に分かれる。
狩猟・採集・漁労の生活。稲作は自生していたものやBC5000年には大陸から一部伝わっていたが、縄文人は森を中心に狩猟・採集・漁労の生活しタイルを崩さなかった。縄文土器を造り、定住することもあった。
一方、南方、東南アジア方面から黒潮に乗って沖縄、九州に渡来してきた人種もいた。1万5千年前、インドネシア一帯はスンダランドと呼ばれ氷河期の影響で陸地だったが、ここから航海術に長けた人々が渡来してきた。しかし6300年前、大噴火でほとんど消滅した。彼らの磨製石斧、坪型土器などは本州にも伝わっていた。
3)定住生活(竪穴住居)を可能にしたものは森の恵みと土器の発見である。1万2千年前に縄文土器が生まれたが、これは8000年前のシュメールや中国よりも古い。土器は、食料の煮炊や貯蔵を可能にした。
森の初期はもみの針葉樹だったが、やがて照葉樹、広葉樹へ変わり、森林化していった。栗、どんぐり、クルミ、トチ、ヤマイモ、山菜、きのこ、果実、小動物、魚介類などの恵みで定住が可能になった。これは、海流の変化で、太平洋側だけでなく、日本海へも黒潮が流れ込むようになり(対馬暖流)、温暖、湿潤、四季をもたらし、森林化による森の恵みをもたらした。
→三内丸山遺跡:大集落、定住(竪穴住居)、大住居、貝塚が発見され、500人の集落が2000年続いたといわれる。森の発達による恩恵があり稲作農業は必要なかった。千葉市の加曾利貝塚も有名。(7000年前の住居、5000年~3000年前の貝塚発掘)
出土品:縄文土器(料理、保存に必須)、磨製石器、石斧、石槍、石鏃、石皿、釣針、丸木舟、土偶(女性)、石棒、耳飾、翡翠(勾玉)、
集落の中心に広場があり、集会、共同作業、祭りを行う。又BC5000年ころには、開墾の技術、植樹による栗林の造成、日本海交易が1000年位続く。
4)気温の変化:4000年前気温が3~4度低下し、栗の成長が悪化し集落が衰退していく。栗に依存しすぎた反省から、森へ分散し、自然のリズムに合わせて生活する「森と共生」する知恵が生まれる。日本は、国土の70%が森で森は日本の原点である。
5)稲の歴史:長江下流に1万年前の稲が出土する。中国雲南省では4000年前から稲作が行われた。日本では6000年前にから稲の栽培(乾田)があった遺跡が発見されている。中国、朝鮮半島から水田の技術を持ち帰った縄文人がいたと考えられる。熱帯ジャポニカから温帯ジャポニカへの移行。
2600年前縄文時代後期に稲作(陸稲)が行われ稲の民日本人が始まった。
②縄文時代の文化―縄文時代は日本の原型
1)自然信仰
縄文人の文化の背景には、豊かで美しい自然と森の恵みがある。(緑、水、空気、シベリアからの寒気や雪をもたらし、対馬暖流は雨、温暖、湿潤、四季をもたらした。
→和辻哲郎の風土論には、風土(気候、気象、地形、地質、景観などの総称)が人間を作るとする考えがある。。
自然の恵みへの感謝と畏敬の思想が生まれ、自然森羅万象にカミ(畏敬すべきもの)が宿るとするアニミズムの信仰思想が生まれた。一方自然は災害をももたらすものでもあり、自然災害をもたらす荒ぶるカミを宥める祈りも行われた。
2)自然と人との共生
縄文人は、森の恵みを取り過ぎることをぜず自然のリズムに合わせ、荒ぶる自然とも和解し、生活資源を平等に分け合い、人々との和を重んじる、「自然と人との共生の道」を選んだ。
3)遺跡からは、縄文土器、土偶(縄文ビーナス、妊婦、安産祈願、繁殖)、石棒(生殖、収穫、繁殖)、抜歯(成人)、犬歯、屈葬(死霊活動防止?)などが見られる。土偶は全体で3000万体以上にのぼると思われ、全てが女性(妊婦、縄文ビーナス)で安産などを祈る祭祀に用いられたと考えられる。又、共同で豊穣や再生を祈る祭りを行っていった。争いが無かったために武器は発見されていない。
縄文文化という優れた文化は、自然の豊かなめぐみを暮らしに取り入れてきた人々の知恵と技術、そして自然と共に生き、家族や仲間を大切に思う心が育んだものである。1万2千年前に縄文土器が生まれたが、これは8000年前のシュメールや中国よりも古い。
→1万3千年前、シベリアのアムール川付近で土器が発見されているが、これらが日本にもたらされたと考えられる。
③弥生時代-縄文との融合による日本人の形成
1)弥生時代
BC300~AD300。BC300ころ、本格的な水田稲作が中国長江方面からの渡来人によりもたらされる。渡来人は中国春秋時代の戦乱を避けて日本に渡来してきた貴族や農民などが多かったと思われる。
ここからいままでの縄文人と新たな渡来人(弥生人)との葛藤(争い)と融合が始まる。西日本は弥生系、東日本は縄文系が多かった。
→古モンゴロイドと新モンゴロイドの葛藤と和解の歴史
弥生土器、鉄器(武器、農耕)、青銅器(祭祀、銅鐸、銅剣、銅矛)、農具、高床倉庫、などが特徴で農耕、定住、巨大集落、新たなタイプの集落が生まれた。又稲の収穫により「富」が生まれ、貧富や身分の差が生まれていく。
集落→村→クニへ。
2)日本人の源流
新たな渡来人は鉄の武器を持ち、トラブルを戦いで解決するという行動原理を持っていたが、縄文人には戦いという概念が無かった。初期には縄文人は殺害されたりしたが、一方では時を経て縄文人と渡来人との交流が始まり、両文化が混ざり合い弥生文化を形成していった。
渡来人の水田技術と縄文人の木を切り倒す技術などが混ざり合い、戦争ではなく平和的に融合していった。その中から日本人が生まれる。
縄文系を基盤として新渡来人の血が入って、今の日本人の原型ができあがった。やがて自国文化が形成されていき、「クニ」と呼ばれる政治、軍事集団が形成されていった。これが古代国家につながっていく。
→DNA鑑定で、日本人には、中国などアジア民族とは異なるDNAが多く確認されており、この違いは縄文人の血が入っているためであるとされている。徹底した争いを避け、緩やかな融合を目指す日本文化の原型がここにある。
→平等社会の根拠は、「同じ住居規模、共同墓地、副葬が無い」の三つだが、これが崩れて身分社会へ移行する。
(3)日本教の思想
①日本教とは(定義) 1)日本教とは「日本人のうちに無意識に染み込んでいる宗教」という意味 の概念を表す山本七平による造語である。言い換えれば、「日本人の行動様式や精神を支える価値観の目に見えない礎」といえる。
→山本七平は『日本人とユダヤ人』で、日本教の特質を次のように挙げた
a 確かに日本教という宗教が存在するが、それは血肉となっていて日本人自身も自覚しないほどになっている
c日本人のクリスチャンとは、日本教キリスト派のことであり、同様に、日本人仏教徒は、日本教仏教派であると言える
d日本人が教会で結婚式をあげ,神社に初詣や七五三にいき,寺で葬式をしても,それは決して宗教に寛容で多様性があるからではない。これらの実質はすべて日本教なのだから、使い分けることに違和感がない。
→世界宣教訓練センター所長の奥山実牧師は「日本は外来のすべてを日本化してしまう」と指摘し、日本教に絶対はなく、絶対者を知らない日本教徒は相対の世界に生きており、日本教の最大の特徴は「相対化」であると述べる。
②日本人の宗教観、倫理観の源泉
日本人の基層にある文化は、縄文時代・弥生時代・古墳時代に培われた思
想にある。その形成に日本の風土、地理的要因が寄与している。
1)自然と先祖への畏敬と共生の思想:古神道(縄文神道)の原型となる。五穀豊穣へのおかげと感謝を形にした祭りの文化、先祖の霊への畏敬と交流の祭祀、祭政一致の思想がある。
2)アニミズム:霊が自然・森羅万象に宿るという考え方。八百万の神という多神教の神観、シャーマニズムにも通じる。
3)現世利益への志向
→これら基層文化は、外来思想が入ってきても変わらず、むしろ儒教・仏教:道教などの外来思想をを取り込んでいった。加藤周一氏は「外来の世界観は仏教と儒教だが、日本土着の世界観を圧倒できなかった。土着が力を持ち、外来の世界観を日本化した。どれも取り入れたが、どれにも染まらなかった」と指摘。
自然は対立するものではなく、恵みを与えてくれるもので、自然と一体・共生の思想が育まれる。→山・川・海・緑・水・空気・四季・温暖の恵み→多神教の源泉(一神教は砂漠と荒野の不毛の地から生まれた)
以上から、以下のような日本人の道徳観が生まれる。そして、その多くが神道の源となった縄文以来の基層文化に負う。
③日本人の倫理観
1)和と共生の倫理観
集落単位で生活し、人と自然との共生を重んじ、集落を守る集団の神、祖先を崇める伝統があり、報恩感謝、互助・互譲・互恵の倫理観が生まれる。
→「お蔭様」「世のため人のため」(日本的道徳観)
「律法の全体は、自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ、というこの一句に尽きる」(ガラテヤ5・14)
→これらは東北大震災に見せた礼儀正しい秩序の源泉になった。又、決定的な争いを避ける和の思想は、歴史的には、縄文と弥生の融合、大国主の国譲りの神話(平和的政権交代)、仏教と神道の習合、海外宗教の受容、近代における科学技術の導入などに発揮された。
古来、日本には、「常世の国」という概念があり、これは海の彼方にある理想郷を意味する記紀に出てくる言葉である。中国には中華思想があり、周辺国や海の向こうにいいものはないと言う思想があるが、日本には海の向こうにいいものがあるという世界観を持ってきた。七福神の一人である「えびす様」は海の向こうからやって来たいい神様である。この中国との考え方の違いは、大陸国家と島国国家と言う地理的要因も大きい。従って、日本は外来宗教や文化をいいものとして積極的に取り入れていく傾向があったが、中国は拒む傾向があった。この思想の違いが、日本で近代化が成功したのに中国では成功出来なかった大きな理由とされている。
しかし、闇雲に外来文化を受容した訳ではなく、水際で選別し、いいものだけを導入し、日本の文化や伝統にあわないものは拒んできた。奈良時代、日本は唐の諸制度を積極的に導入したが、科挙制度、宦官制度、纏足、賄賂の風習などは拒否してきた。平田篤胤は「海外から来るものは、よく選んで用いるべし」といっているとおりである。
儒教は、中国では統治思想だったが日本では徳目になった。仏教も日本に入って大きく変貌し、日本的大衆仏教になった。種子は中国やインドからやってきたが、実際花開いたのは日本であった。近代において科学技術も欧米からやってきたが、開花したのはやはり日本だったのである。そもそも日本と言う国は、古来そういう性向を持っている。日本の伝統文化の中に、異文化を柔軟に受容し且つ選別する能力、異文化を受け入れても崩れないアイデンティティーがあるからである。
2)清浄を好み穢れを嫌う倫理観
清き明るき心(清明心)を重んじ、禊・祓いにより身を浄める。シンプルにして簡素、清潔、きれい好きな国民性
3)日本的美意識
いさぎよさ、気前よさ、水に流す、と言った無常感がある(桜に象徴、切腹、武士道精神)又、感覚的できめ細やかな心情は、おもてなし、侘び、さび文化を生む
→神道は道であり、知るものではなく感じるものとの宗教観がある
4)武士道について
日本人、特に指導層の倫理観に影響を与えた思想として看過できないものに武士道がある。久保有政牧師は日本精神の代表は武士道にあり、これはイエスの思想と通じると指摘される。新渡戸稲造の著書「武士道」はその清華であり、内村鑑三も武士道の信奉者だった。武士道には日本的徳性のエキスが凝縮されている。
台湾の李登輝は武士道こそ日本精神の花だといわれた。李登輝もクリスチャンだった。アメリカ大統領も「武士道」を読んで感銘した。武士道とキリスト教は相反するものではなく、武士道を完成させるものがキリスト教だと久保氏は指摘される。
では武士道とは何か。特に以下の3点を指摘したい。先ず武士道とは死ぬことである。死ぬとことは「このことのためなら死んでもいい」というものを持つことであり、これを持つと生が輝いてくる。死は義と結びつくとき崇高な美学になる。死ぬことはまた、より良き生を生きるためでもある。小林秀雄は「人間、生きるためには一度死ななければならない」と言っている。桜はそれを象徴している。これはキリスト教の殉教精神に通じる。
次は滅私奉公だ。身を捨てて公のために生きることだ。私利私欲を捨てて公に奉仕する、ここに武士道の本分がある。西郷隆盛は「金も地位も名誉も命もいらない人間は始末におえない。しかし、こういう人間でなければ大事を任せられない」といった。評論家の青山繁晴も同じことを言っている。西郷の征韓論は義と平和の精神から出たものであって武力で征伐するような次元の低いものではなかった。滅私奉公は封建社会の古い道徳観ではない。イエスも先ず神の国を求めよと説いた。
さらに情である。武士の情けという言葉がある。「窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず」(顔氏家訓)である。旧約聖書には弱者救済の律法がある。キリスト教の慈善事業は情の実践だ。
その他、義務、克己、忍耐、勇気、礼などの優れた武士道の徳目があるが、代表的な思想として上記3つを挙げた。
2、神道は日本教にいかなる影響を与えているか
1)今まで見てきたように、日本教乃至日本の伝統文化は、神道をはじめ外来宗教(仏教、儒教、道教、景教)の思想をも取り込んで形成された複合的なものである。しかし、その多くが神道、主に縄文神道(古神道)以来の基層文化に負っているのではないか。そしてそれは日本の社会の中で習俗的、習慣的に定着し日本教の内形となっている。
2)上記のような考え方は、そうあって欲しいという願望が込められているのかも知れない。しかし、日本教の形成には、低めに見積もっても50%は、古神道を含む神道に負うものではないかと思われる。
3、日本の3つの特質
1)清浄:清く明き心は日本的倫理観の源泉になっている。
2)和:決定的な決裂を避け平和を求める文化がある。民事訴訟の90%が和解で収束していることにも見て取れる。融合、溶鉱炉的機能がある。
3)母性:地理的には、日本は島国、海洋国家である。大陸は男性を象徴し、島嶼は女性を象徴するといわれる。海洋は母性を象徴し、陸は父性を象徴する。(日本の最高神である天照大神は女性神であり、和、寛容、融合は母性の特質) ただし、日本には武士道という男性的な思想もある。陰は陽を備え、陽は陰を備える。
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