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福沢諭吉論① 『学問のすすめ』を読み解く 福沢諭吉と日本の近代化

◯つれづれ日誌9月8日ー福沢諭吉論①ー『学問のすすめ』を読み解くー福沢諭吉と日本の近代化


天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり(学問のすすめ)


上記の言葉は福沢諭吉の言と誤解されることが多いですが、正しくは福沢の言ではなく、トーマス・ジェファーソンによって起草された「アメリカの独立宣言」の序文の一節「すべての人間は創造主によって平等に造られている」を意訳したものと言われています。


【何故、福沢諭吉を論じるか】


8月31日午後、恒例の宗教政治研究会の会合が、幸福の科学白金門前支部で行われ、筆者も参加致しました。たまたま白金門前支部は三田の慶応大学に隣接した地域にあり、ことのついでに午前中は、慶応大学旧図書館にある福沢諭吉記念館を訪問いたしました。


前回は、はからずも早稲田の大隈重信について論評しましたので、もう一つの私学の雄慶応大学の創立者である福沢諭吉を語らない訳にはいきません。今回もまた、はからずも福沢諭吉記念館に導かれ、多くの示唆に富む情報を得ることが出来ましたので、福沢について論評することにいたします。


実は筆者は、緒方洪庵の適塾で学び、塾長を務めたことがある福沢諭吉について、適塾を起源とする大阪大学の食口OBから、福沢についての論評をリクエストされていたのです。


福沢諭吉は、いうまでもなく、その開明思想によって封建的門閥制度を打破し、日本の近代化に大きく貢献した優れた思想家・教育者・啓蒙家、そして西欧文明の紹介者であります。この際、福沢を通して、日本の近代化の意味を探ると共に、福沢イズムが何であり、その結実とも言うべき福沢のなした事業(特に慶応大学創設)について考察したいと思います。


【福沢諭吉の生涯路程と業績及び思想形成】


さて筆者は、当福沢記念館にて、福沢に詳しい記念館スタッフに、次の3点について質問し説明を求めました。


第一点は、福沢諭吉の思想とは何かについて、その要点についてお尋ねしました。


第二に、福沢イズムの源泉に対する質問であります。曰く、「内村鑑三はキリスト教が、渋沢栄一は論語が思想的淵源になっていたが、一体、福沢には如何なる思想的淵源があったのか」という問いかけをいたしました。


第3点は、西洋文明を論じるに当たって、福沢が「どれだけキリスト教についての知識と理解があったのか」という質問であります。何故なら、福沢は『西洋事情』と『文明論の概略』という本を世に出しましたが、西洋文明の根幹にはキリスト教があることは明らかであり、そのキリスト教への理解なくして西洋文明論は書けないと思ったからです。


従って、上記の3点について明らかしていくのが、今回の福沢論の中心テーマであります。


<誕生・漢学(儒教)を学ぶ・門閥制度は親の敵>


福沢諭吉(1834.12.12~1901.2.3)は、1834年(天保5年)12月12日、大坂の中津藩蔵屋敷で、13石の中津藩士福沢百助とお順との間に次男として生まれました。


諭吉という名は、儒学者でもあった父が手に入れた『上諭条例』(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)から「諭」を取ったと言われています。


2歳のとき父(44才)と死別し、母子一家は中津(大分県中津市)へ帰り、母の手一つで育てられましたが、彼もまた母をよく助けたと言われています。


8才年上の兄・三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言であったとい言われていますが、福沢は、孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はあまりもっていなかったようです。(ちなみに福沢の兄は1856年に30才で死去し、福沢は福澤家の家督を継ぐことになりました)


福澤諭吉の少年時代はと言うと、神社の祠にあったご神体を道端の石と取り替えて、拝みに来る人を観察してみたり、お札を踏んで祟りがないかを試してみたりと、かなりの悪童ぶりでした。しかし刀剣細工や畳の表がえ、障子のはりかえをこなすなど内職に長けた子供でもありました。背丈も大きく、剣術(居合)を習っていたそうです


父・百助は、鴻池や加島屋などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にありながら、藩の儒学者に学び、儒学に通じた学者でもありました。


しかし、学識豊かな教養人でありながら下級武士のため、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずに不遇に終わった父の生涯でした。そのため息子である諭吉はのちに「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身も封建的身分制度にはつよく反発していました。


また藩から扶持が出ていたものの、中津における一家の孤立、下士の生活の惨めさは、彼のうちに早から封建的門閥制度打破の思想を植え付けました。


13.4才のころから漢学を学び始め頭角を現しました。福沢は学び始めるとすぐに実力をつけ、以後さまざまな漢書を読み漁り、漢籍を修めました。18歳になると、兄・三之助も師事した白石照山の塾(晩香堂)へ通い始め、『論語』『孟子』『詩経』『書経』はもちろん、『史記』『左伝』『老子』『荘子』に読書が及び、特に『左伝』は得意で15巻を11度も読み返して面白いところは暗記したといいます。


福沢の学問的・思想的源流に当たるのは荻生徂徠らであり、諭吉の師、白石照山は陽明学や朱子学に通じていました。従って、諭吉の学問の基本には漢学(儒学)が根ざしており、その学統は三浦梅園にまでさかのぼることができ、のちに蘭学の道を経て思想家となる過程にも、この学統の影響があると思われます。(但し、福沢は後に儒教を批判しています)


<長崎で蘭学を学ぶ>

福沢は、1854年(19才)、兄の勧めで長崎へ遊学し、砲術家の山本物次郎宅に居候して蘭学を学ぶことになりました。黒船来航により砲術の需要が高まり、「オランダ流砲術を学ぶにはオランダ語の原典を読むことが必要だ」との兄の助言がありました。


1855年、その長崎を出て、大坂を経て江戸へ出る計画を強行しますが、兄から「江戸へは行くな」と引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得されました。


<緒方洪庵の適塾で学ぶ>

そこで諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた足守藩下士で蘭学者の緒方洪庵の「適塾」で学ぶこととなりました。後、22才で緒方洪庵の適塾で塾長となりました。


緒方洪庵は(1810~1863年)は、江戸末期の武士であり、医者・蘭学者であります。大坂に適塾を開いて人材を育て、天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれています。


また適塾とは、緒方洪庵が大坂船場に開いた蘭学の私塾で、1838年開学しました。幕末から明治維新にかけて福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内、箕作秋坪など多くの名士を輩出し、大阪大学の源流になりました。


適塾では、教える者と学ぶ者が互いに切磋琢磨し合うというやり方で学問の研究がなされており、塾生にとっての勉強は、もっぱら蔵書の解読でした。


塾生の多くは苦学生で、遊びは酒を飲んだり、北新地に繰り出すこともありましたが、ひたすら勉学に打ち込んだといわれています。「目的なしの勉強」で、学ぶこと自体が目的であり、純粋に学問修行に努めました。


この適塾では、主として生理学、医学、物理学、化学などの原書を読み、種々の実験を試み、ファラデーの電気学説にもふれる機会を得ました。適塾は診療所が附設してあり、医学塾ではありましたが、諭吉は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようであります。


また福沢諭吉はもともと無類の酒好きでしたが、適塾の塾生から無理やり勧められてタバコも覚えさせられました。60才代入になって酒は辞めましたが、タバコは辞められないと自伝に書いています。(現代語訳『福翁自伝』ちくま新書P107)


北新地にも足を伸ばすなど、奔放な適塾生活を楽しみ、適塾の有様について「塾風は不規則と云(い)わんか不整頓と云わんか乱暴狼藉、丸で物事に無頓着。その無頓着の極は世間で云うように潔不潔、汚ないと云うことを気に止めない』 (福翁自伝)と記しています。


しかし一方では、勉学への集中は半端ではなかったようです。昼も夜もなくひたすら学び、遂に枕して寝ることはなかなったと述懐しました。これらの適塾時代の有り様は、『福翁自伝』に詳しく語られています。


ちなみに『福翁自伝』は、自分の生き方について飾らず率直に書き、自分がどんな人間であったか、どんな考え方をして、どんな風に生きたか、それを描き出している面白可笑しい稀有な自伝であります。


<江戸出府・蘭学塾>

幕末の時勢の中、無役の旗本で石高わずか40石の勝海舟らが登用された時勢、1858年、約3年の適塾生活を経て、福沢諭吉にも中津藩から江戸出府が命じられました。


江戸の中津藩邸に開かれていた「蘭学塾」の講師となるために江戸へ出て、築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えました。藩から蘭学塾の講師として招かれる位なので、余程学問があると認められていたのだと思われます。


ここで福沢は、佐久間象山の貴重な洋書を片っ端から読んで講義にも生かしました。住まいは中津藩中屋敷が与えられたほか、江戸扶持(地方勤務手当)が別途支給されています。


この蘭学塾こそ、後の学校法人慶應義塾の源流となったため、この1858年が慶應義塾創立の年とされています。


<英学への転向>

1859年、福沢は1859年に結ばれた日米修好通商条約により新たな外国人居留地となった横浜に出かけることにしました。自分の身につけたオランダ語が相手の外国人に通じるかどうか試してみるためであります。


ところが、そこで使われていたのはもっぱら英語であり、福沢が苦労して学んだオランダ語はまったく通じませんでした。衝撃を受けた福沢は、それ以来、英語の必要性を痛感し、世界の覇権は既にオランダから大英帝国に移っていることを知らされました。こうして「蘭学から英学に転向」し、英語を独習しました。


<渡米>

1859年の冬、幕府は日米修好通商条約の批准交換のため、幕府使節団をアメリカに派遣することにしました。そして福沢は、翌1860年(26才)、幕府の軍艦咸臨丸の艦長の従僕として渡米することになりましました。


福澤諭吉は、軍艦奉行の木村摂津守(咸臨丸の艦長)、勝海舟、中浜万次郎(ジョン万次郎)らと同じ「咸臨丸」に乗船しましたが、航海は出港直後からひどい嵐に遭遇し、大変な37日の長旅を経て、幕府使節団はサンフランシスコに到着しました。


ここで福沢は51日間滞在して、日米の文化の違いを痛感しました。その後、修理が完了した咸臨丸に乗船してハワイを経由して、1860年6月23日に日本に帰国しました。


その後、福澤諭吉は、「幕府外国方・翻訳方」に採用されて、公文書の翻訳を行うようになりました。


<渡欧>

1861年12月、幕府は幕府使節団を結成し、欧州各国へ派遣することにし、福沢も「翻訳方」のメンバーとしてこの「幕府遣欧使節団」に随行し、仏英蘭独露葡6か国を歴訪し、欧州各国の事情や歴史を学びました。


1862年1月1日、長崎を出港し、1月6日、香港に寄港し、幕府使節団はここで6日間ほど滞在しました。福沢は、香港で植民地主義・帝国主義が吹き荒れているのを目の当たりにし、イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受けました。


1862年3月9日、パリに到着し、ここで26日を過ごし、パリ市内の病院、医学校、博物館、公共施設などを見学しました。


1862年4月2日、幕府使節団はドーバー海峡海峡を越えてイギリスのロンドンに入り、ここでもロンドン市内の駅、病院、教会、学校など多くの公共施設を見学し、万国博覧会にも行って、そこで蒸気機関車・電気機器・植字機に触れ、西欧文明に驚きました。 滞在期間は46日でした。


ロンドンの次はオランダのユトレヒトを訪問し、そこでも町の様子を見学しました。(滞在34日) その後、幕府使節団は、プロイセンに行き(滞在20日)、その次はロシア(滞在42日)に行きました。その後、再びフランスのパリに戻り、そして、最後の訪問国のポルトガルのリスボンに1862年8月23日、到着しました。


1862年9月3日、幕府使節団は、日本に向けてリスボンを出発し、1862年12月11日、日本の品川沖に無事に到着・帰国しました。


以上、福沢はヨーロッパ6か国の歴訪の長旅で、 病院・銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度などについて、自分の目で実際に目撃したことを細かく記録しました。後に福沢は、イギリスの議会制度を模範とする議会を開くよう運動をしています。


1864に幕臣となり、1866年、これら洋行経験をもとに『西洋事情』(初編)を刊行し、欧米諸国の歴史・制度の優れた紹介書として評価を受けました。


<再渡米>

1867年、幕府はアメリカに注文した軍艦を受け取りに行くため、幕府使節団をアメリカに派遣することにし、その随行団のメンバーの中に福沢諭吉が加わることになりました。


アメリカに到着後、幕府使節団はニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れ、この時、福澤は、紀州藩や仙台藩から預かった資金、およそ5000両で大量の辞書や物理書・地図帳を買い込んだといいます。福澤は『西洋旅案内』(上下2巻)を書き上げました。


以上のように福沢諭吉は、1860年(25歳)の渡米、1862年(27歳)の渡欧、そして1867年(32歳)の再度の渡米と、三回の海外を体験しました。これらの欧米体験によって福沢の視野は飛躍的に広がり、明治の啓蒙思想家として、大きな影響を及ぼすようになっていきました。


しかし海外滞在期間は三回合わせても7ヶ月くらいにしかなりません。このような短期間の体験にも係わらず、『西洋事情』などの本で欧米を詳細に紹介していますが、いかに福沢の観察力や分析力が優れていたかが分かるというものです。


この3回の欧米渡航により,近代文明をつぶさに見聞し、従来の和魂洋才的理解でなく、西洋資本主義文明を、それを生み出した精神から理解しようとしました。


<明治維新・民間重視・慶応義塾>

1867年12月9日、朝廷は王政復古を宣言し、江戸開城後、福澤諭吉は明治新政府から出仕を求められましたがこれを辞退し、以後、官職に就きませんでした。翌年には帯刀をやめて平民となっています。


1868年には、蘭学塾を芝新銭座に移し、名称を「慶応義塾」とし、商工農士の差別なく洋学に志す者の学習の場としました。



福沢は、官軍と彰義隊の上野戦争が起こっている最中でも、アメリカの牧師であり経済学者のF・ウェーランドの著書『経済学原論』の講義を続けたという有名なエピソードが残っています。


この義塾での教育を中核として、国民一人一人の「独立自尊」にもとづく国家の発展と繁栄を目的とし、政治・経済・社会・言論などの諸領域にわたる活発な思想活動を展開しました。


この年(1868)8月幕臣を辞し、中津藩の扶持も返上、明治政府からのたびたびの出仕要請も断り、生涯民間にあって教育と著述に専念しました。


その後福沢は、新銭座の土地を譲り渡し、三田の旧島原藩中屋敷の土地の払い下げに成功し、1872年からここに慶應義塾を移転させました。


<民間で教育・啓蒙・著作に専念>

福沢は、西洋近代の文明によるアジアの後進性からの脱却を説き、また個人の独立・自由・権理の平等は天賦であるとして、儒学に代わる「実学」の必要を主張しました。ちなみに福沢いう実学とは、「世の中や生活と結びつきのあるもの」を意味し、主としてそれに励むよう主張しました。


著書『学問のすゝめ』初編(1872年)は、身分の上下・貧富の隔てなく学問が重要であること、それによって「一身の独立をもって一国の独立」が得られることを説いた処世本であります。時代の共感を呼び、第17編(1876年)まで書き継がれ、総発行部数340万におよびました。ここに啓蒙思想家としての地位が確立されることになります。


福沢は西洋の二つの原理、すなわち有形において「数理学」(体)と、無形において「独立心」(心)を日本に取り入れようとしました。彼の代表 的著作の一つである『学問のすすめ』も、数理学と独立心の意義を一般民衆向けに説いたものであります。また数理学とは、今日の自然科学・社会科学・人文科学の一 部をふくむ学問分野を指します。


1873年、当代一流の洋学者たちの結集した森有礼の明六社に参加し、『明六雑誌』などを舞台に文明開化の啓蒙活動を展開、また演説の重要性を指摘し、明六社や義塾で演説会を催しました。


1874年母死去。翌1875年『文明論之概略』を刊行、比較文明論を論じ、日本文明の停滞性を「権力の偏重」にあるとし、西洋文明を目的とした自由な交流と競合こそが日本を文明国にすると説きました。本書は日本最初の文明論の傑作であり、西洋文明を相対化する視点も示しました。


『学問のすゝめ』『西洋事情』『文明論之概略』の3著作によって,明治初期の思想界に大きな影響を与え,また『明六雑誌』『民間雑誌』に発表した多くの啓蒙的論文も大きな役割を果たしました。


1882年には 不偏不党を 旗印にかかげる日刊紙『時事新報』を創刊して官民調和を唱えました。福沢は「富国強商(尚商)」を主張し、自由民権運動には批判的でした。また晩年には『脱亜論』(1885)を唱え、富国強兵政策を支持し、日清戦争に際しては、文明と野蛮の戦争と断じ、熱烈な支持を与えました。

当初、朝鮮の金玉均(きんぎょくきん)ら開明派の亡命を積極的に保護して、朝鮮の近代化を後押しした福沢でしたが、1884年甲申政変によってかねて支援してきた朝鮮開明派の敗北の中で、1885年に「脱亜論」を発表し、「亜細亜(アジア)東方の悪友を謝絶する」というに至ります。


<脱亜論とは>

さて脱亜論とは、ヨーロッパを「文明」、アジアを「未開野蛮」とみて、日本はアジア諸国との連帯は考えずに西欧近代文明を積極的に摂取し、西洋列強と同様の道を選択すべきだとする主張であります。


日本は、積極的な文明開化政策を採用し近代化への道を進みましたが、欧米文明に対しては「賛美と反発の屈折した意識」をもつ一方、日本と同じ境遇にあった中国、朝鮮などアジアに対しては「同情と蔑視の複雑な意識」を持ちました。


しかし日本は、維新以来の文明開化が成功したとする文明国意識が高まるにつれ、「アジア諸国の近代化は期待できない」とみるアジア悲観論や蔑視感が強くなっていきました。


また民権運動高揚期には欧米列強に対抗するため「アジア諸国との連帯」が強調されていましたが、民権運動の敗北と「政府の近代化政策の成功」によって,アジアからの離脱が主張されはじめたのです。


1885年3月16日、福沢諭吉は『時事新報』の社説で「脱亜論」を発表し、「我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予あるべからず、むしろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、亜細亜東方の悪友を謝絶する」と論じました。


即ち、日本はすでにアジアの固陋を脱して西洋の文明に移ったのに,不幸なことに固陋な儒教主義の国(支那・朝鮮)と隣りあわせている日本として、とても「隣国の開明を待ちてともにアジアを起こすの猶予あるべからず」、つまり隣国だからといって特別の考慮は不要であるとしたのです。


以来、脱亜主義(脱亜論)とアジア主義(興亜論)は、両者を近代日本の対外論を貫く二つの主要な潮流もしくは傾向ととらえようとする見方が広がりました。


さてその間福沢は、東京学士会院初代会長(1879)、名望家のサロン交詢社(こうじゅんしゃ)の結成(1880年)、そして1882年には前述した新聞『時事新報』の創刊に携わりました。


晩年には『福翁百話』『福翁自伝』『女大学評論・新女大学』などを著述。著作は『福沢諭吉全集21巻』に収められ、1984年11月発行の1万円札(2004年11月改刷)には福沢諭吉の肖像が採用されました。


<死去・評価>

明治34年2月3日、脳溢血で死去し(66才)、浄土宗の常光寺(東京都品川区上大崎1丁目)に葬られました。法名は、「大観独立自尊居士」であります。


なお福沢諭吉は、自由主義者、民主主義者、合理主義者、女性解放論者などという高い評価と共に、「西洋崇拝」「政府への妥協」「一般民衆への非情」「権道主義への転向」などと批判する見解もあり、その評価はさまざまであります。


<家族関係・私生活>

福沢は、1861年冬(諭吉27歳)、中津藩上士、土岐太郎八の二女錦(16才)と結婚しました。錦は、福沢との間に四男五女をもうけ、1924年6月2日、80歳の長寿を全うして東京三田の家で死去しました


福沢の弟子で東京慈恵会医科大学創立者の松山棟庵(とうあん)によると、福沢は結婚前にも後にも妻以外の婦人に一度も接したことがなかったといいます。「先生は嘘をつく方ではない、先生の御夫婦ほど純潔な結合が、今の世界に幾人あるだらうか」と語り、ある時福沢先生に尋ねると、次のように語られたと述懐しています。


「性來の健康の外に別段人と異つた所もないが、唯一つの心当たりと云ふのは、私は妻を貰ふ前にも後にも、未だ嘗て一度も婦人に接した事がない、隨分方々を流浪して居るし、緒方塾に居た時は放蕩者等を、引きずって來るために不潔な所に行つた事もあるが、金玉の身体をむざむざ汚す様な機會をつくらぬのだ」


また福沢は、若年のころより立身新流居合の稽古を積み、成人のころに免許皆伝を得た「居合の達人」でした。晩年まで一日千本以上抜いて居合日記をつけていたと言われています。


諭吉は急速な欧米思想流入を嫌う者から、幾度となく暗殺されそうになっていますが、斬り合うことなく逃げています。諭吉自身、居合はあくまでも求道の手段として殺傷を目的としていなかったようであり、同じく剣の達人と言われながら生涯人を斬ったことがなかった勝海舟や山岡鉄舟の思想との共通性が窺えます。


【福沢諭吉の思想ー福沢イズムの考察】


上記の通り、福沢諭吉の略歴や業績と思想形成を見てまいりましたが、これを踏まえ、福沢が主張した思想、即ち「福沢イズム」について、更に掘り下げて考察したいと思います。


<学問のすすめ・独立自尊>

福沢諭吉は著書『学問のすすめ』において、日本が文明国になるためには、国民が学問によって高められなければならないと訴えました。では、福沢のいう学問とは何んでしょうか。


福沢曰く、学問とは、精神と物質の両面において、物事の道理をつかみ、人間としての使命を知って、「独立自尊」の気概を養うことであるとしました。(現代訳『学問のすすめ』ちくま新書P22) また、飯を炊きや風呂を沸かすのも学問であり、天下のことを論じるのも学問である、とも言っています。つまり、空理空論ではなく、社会の役に立つ実際的な学問を意味しました。


確かに現代人の私たちからすれば、福沢が『学問のすすめ』などで説いていることは、しごく当たり前の道理であり、取り立てて強調するようなことではないと思うこともなきにしもあらずです。しかし当時の日本は、いかにすれば個人や国が独立し、植民地化を防いで近代化できるのかを、深刻に考えなければならない時代状況にありました。それには「国民皆学」が必要だと説いたのです。


そして「独立自尊の精神」は福沢の思想を要約した言葉であり、その意味は「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」(『修身要領』第二条)としています。


即ち、自他の尊厳を守り、何事も自分の判断・責任のもとに行うことを意味し、これは慶應義塾の基本精神になっています。つまり福沢がいう「独立」とは、独自でも孤立でもなく、「他に依存しない」ことであり、精神的にも経済的にも「自律すること」にあります。平たく言えば、自分の足で立つことであり、自分のことは自分が責任を持って「決める」ことであります。


また「自尊」とは、このような一身の自律を尊ぶ気概であり、自分が大切であるように、他人をも大切にしなさいということです。つまりイエスの「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7.12)という黄金律であります。


これらがあって始めて、一国の独立も繁栄も可能になるというのです。即ち「一身独立して一国独立す」というのです。(現代訳『学問のすすめ』ちくま新書P36)


そしてこれらの独立自尊の主張は、上意下達の封建時代にあって、それまでの没個性的、没主体性の人間観に対する強いアンチテーゼでありました。


福沢は、才能があるのに身分が低かったために不本意な人生に終わった父親を憐れみ、その当時の家柄がものをいう封建的身分制度を「親の敵(かたき)」と激しく嫌悪しました。福沢の「独立自尊・自主自由・権利(理)の平等」の思想は、この父親が原点になっています。


そしてその怒りの矛先は、幕府だけでなく、依然として中華思想からなる冊封体制を維持していた清や李氏朝鮮の支配層にも向けられていました。


こうして福沢のいう独立には、依存心からの脱却と共に、個人の自由や自主性を拘束する封建時代の門閥制度・身分制度からの解放も意味していたのです。そしてこれらの封建的な身分制度を擁護するかに見える儒教を強く批判しました。福沢は孔子と孟子を、「古来稀有の思想家」として評価しつつも、儒教的な「政教一致」の欠点を指摘しました。


かくして福沢の最大の功績は、封建的身分制度を打破する思想的根拠を示し、西欧文明を正しく解説するとを通して、日本の近代化を推し進めたところにあると言えるでしょう。


<門閥打破、近代化の思想>

では門閥打破、日本の近代化を、福沢は如何なる思想を持って成し遂げようとしたのでしょうか。それが「西欧文明」でした。


福沢の理想とした「独立自尊・自由・平等な権利(理)の確立」は、福沢にとって当時の日本文明の対極にあるものでした。


しかし門閥打破、身分制度の撤廃には、巨大なエネルギーを必要とします。往々にして、それを自力で成し遂げることがいかに困難であるは歴史が示しているところです。


例えば明治維新によって士農工商の身分制度は撤廃され、一応四民平等の世が到来しました。しかし、この引き金になったのは外圧(黒船)でありました。そしてそれを実効あらしめたのは天皇を頂点に頂く「一君万民」思想であり、なかんずく西欧文明でありました。


同様に、朝鮮李王朝時代の奴婢を解放して身分制度を撤廃したのは、日帝という外圧だったのであり、これを定着させたのが日本の近代制度でありました。


こうして福沢は、この西欧文明をもって、日本の近代化を定着させようと図ったのです。福沢は、ベストセラーになった『学問のすすめ』『西洋事情』『文明論の概略』などの著作を通じて、明治維新後の日本が中華思想や儒教精神から脱却して、西洋文明をより積極的に受け入れる流れを作りました。では一体、その西欧文明とは何でしょうか。


<西欧文明とは何か>

前述しましたように、『学問のすすめ』冒頭の言葉「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」はアメリカ独立宣言を起草したトーマス・ジェファーソンの引用だと言われています。


そして福沢の思想には、下記に記すアメリカの独立宣言から、多くの示唆を受けていると思われます。


「すべての人間は創造主によって平等に造られ、一定の譲り渡すことのできない権利をあたえられており、その権利のなかには生命、自由、幸福の追求が含まれている」


つまり、福沢のいう「独立自尊・自由・平等の権利」は上記の日本版とも言えなくもありません。


実はこの独立宣言は,アメリカ人宣教師の書から幕末の日本に紹介され、さらに福沢諭吉により独立の檄文と題して『西洋事情』初編(1866)に訳出されました。 このアメリカ独立宣言の精神は、著作によって広まり、明治期の自由主義思想の一つのよりどころになりました。


ちなみにジェファソンが組み立てた「アメリカ革命」の理論は次の三つの特色があり、これも福沢の著書『学問のすすめ』などに顕れています。


第一に、万人は平等につくられ、また、生命、自由および幸福追求を含む不可譲の権利を、創造主から与えられていること。→福沢の天賦人権思想


第二に、これらの権利を保全するためにこそ政府が設立されるのであり、政府の正当なる権力は統治される者の同意にその根拠を有する。→福沢の契約国家思想


第三に、どんな形の政府にせよ、いやしくも政府がこの目的を破壊するようになれば、かくのごとき政府を変え、またはそれを廃止して、人民の安全と幸福とをもっともよく実現すると思われる原理に基礎を置く新政府を樹立することは、人民の権利である。→福沢の国民による異議申立権


一方福沢は、外国など見たこともない人々がほとんどの日本にあって、アメリカ及びヨーロッパ6か国の歴訪を通じて、 政治制度、税法、紙幣、複式簿記、兵制、会社、学校、病院、蒸気船、蒸気機関車、などについて、自分の目で実際に目撃したことを細かく記録し、著書『海外事情』としてまとめ国民に紹介しました。


福沢は政治制度について、「立君」(立君独裁と立憲君主)、「貴族合議」、「共和政治」の三様があり、イギリスの政治は、この三様の政治が「調和して存在する無類の制度」として高く評価しています(『西洋事情』備考)。


福沢は、イギリスの政党政治・議会政治を大いに参考にすべしとし、その政治体制を最も理想的な政治体制と考え、日本の最終到着点もそこであると考えていました。福沢は、敬虔なクリスチャンでありイギリス首相を務めたウィリアム・グラッドストンを深く尊敬し、しばしば、伊藤博文ら保守派が尊敬するビスマルクを「官憲主義」、グラッドストンを「民主主義」として対比して論じました。


こうして福沢は、内的にはアメリカ独立宣言に見られる独立自尊の精神を、外的には西欧の諸制度を、「西欧文明」として輸入し、門閥制度の打破と日本の近代化実現のための武器としました。そしてそこには、これらを貫く洗練され透徹された合理性がありました。


しかし李登輝は、講演「学問のすすめと日本文化の特徴」で福沢について、「欧米を日本に紹介するだけではなく、著書を著すことによって、思想闘争を行い、日本文化の近代化と日本文化の伝統維持を両立させた」と評価しています。つまり、福沢の西洋化とは西欧ナイズされることではなく、取捨選択して活用し取り込むことだというのです。


福沢は『学問のすすめ』の中で、「西洋文明は、確かに我が国の文明を上回ること数段上だが、決して完璧な文明というわけではない。欠点を数えれば、枚挙にいとまがない」(第15編判断力の鍛え方)とも指摘しています。福沢は単なる西洋かぶれではなかったのです。


【福沢イズムから学ぶこと】


福沢諭吉は、「一身独立して一国独立す」と語りましたが、福沢の独立自尊は、私たち「統一家」にも当てはまることであり、信徒の一人一人が独立してこそUCの独立もあると言えると思われます。即ち「一身の回心なくしてUCのリバイバルも無し」ということです。おもねず、依存せず、へつらわず、しかも組織を尊重し、その発展に寄与することが肝要です。


福沢は、門閥制度は親の敵(かたき)と言い、封建的身分制度に道徳的根拠を与えるかに見える儒教を嫌悪しました。「忠孝烈」といった儒教の徳目は、ややもすれば為政者の国民統治の方便に利用され、人々の人権弾圧の道具に成り果てます。


無論、忠孝烈自体は尊い徳目には違いありませんが、個の確立、即ち独立なき忠孝烈は、人間から個性と主体性を奪い、双方を不幸にすることは明らかです。


もっとも福沢は、誰よりも国を愛し、父母を愛し、妻子を愛し、そして兄妹を愛しました。その意味では当に忠孝烈悌の体現者と言えるでしょう。また、若きころから「四書五経」に通じ、著書には論語や孔子の言葉を多用しています。しかしその福沢が、儒教的な道徳観と儒教的秩序に異を唱えたところに、私たちは注目すべきではありませんか。



以上、今回は福沢諭吉論の一回目として、福沢の生涯路程とその思想形成、及び福沢イズムとは何かについて論じました。明治初期、著書を著し、人間の自由・平等・権利の尊さを説き、新しい時代の先導者となった福沢諭吉です。


ひとりの人間としての福沢は、儀礼的な慣習や常識などにとらわれることを嫌い、飾らず気さくで、また「独立自尊」を身をもって体現する行動的な人物でした。また自らを「学も浅いし見聞も広くない」と謙虚に語りました。


そして大隈重信が従一位大勲位侯爵・菊花大綬章受賞・参議、大蔵卿・内閣総理大臣と華やかな官位を経たのに対して、福沢諭吉は如何なる官位、受勲をも辞退し、生涯無冠の啓蒙家であり、文字通り荒野に叫ぶ預言者の如しでありました。


しかし、牧師で経済学者のウェーランドに傾倒し、敬虔なキリスト教徒の政治家 グラッドストンに心酔した福沢諭吉でしたが、福沢が慕う西洋文明の根幹にキリスト教とバイブルがあったことを、どれだけ理解していたのでしょうか。


次回は、福沢イズムの思想的淵源、及び宗教観、特にキリスト教との関連について、「著書『文明論の概略』を読み解く」という形で、今回語れなかったことを含め、考察したいと思います。(了)

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