◯つれづれ日誌(11月24日)-聖書を何故学ぶのか③ 聖書の課題について
わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。.....巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる。(黙示録5.1~5)
前2回に渡り「聖書を何故学ぶのか」を論じ、聖書を学ぶ意味やその効用、そしてその特徴、影響、実績などについて考えて参りました。
これを踏まえ、このような市民権と実績を持つ聖書ですが、では聖書は誤りなき完全無欠の書なのかどうか、聖書に弱点はないのか、即ち、今回は「聖書の課題」について、何点かを指摘し、考察したいと思います。
そして聖書の課題とは、即ちキリスト教の課題に他なりません。何故なら、聖書はキリスト教信仰の絶対的な経典であり、聖典であるからです。
【聖書解釈の混乱と教派の乱立】
先ず第一に、キリスト教、特にプロテスタントにおける「教派の乱立」を指摘しなければなりません。今や教派の数は数百とも言われています。そして各派は、単に対立するだけでなく、血を流すことさえあるというのです。一つの神、一人のキリストを仰ぐキリスト教が何故このように分裂するのでしょうか。 その最も大きな理由は、聖書解釈の混乱にあります。プロテスタントは、基本的に聖書解釈が各人、各派に委ねられていますので、聖書の重要な論点において各派の見解が異なることが多々あるからです。
そして聖書解釈の混乱は、a.聖書観の違い、b.聖書の比喩・象徴・寓話などの象徴的表現をどう解釈するかの問題、c.史的イエスと信仰(ケリュグマ)のイエスの乖離(かいり)の問題、などが指摘されます。しかし何といっても、聖書に秘められた「奥義」をどう解明するかが、聖書解釈の混乱の根本にあると言えるでしょう。即ち、教派分裂の原因は聖書自体にあり、聖書の奥義の解明が望まれる所以であります。但しカソリックでは、聖書解釈の最高権威が教皇にあり、カソリックなりの統一した見解がありますので、プロテスタントに見られるような混乱は最小限にとどまっています。
今日、聖書批評学の発達で、福音書の客観性への疑問が問題提起されています。特に史的イエスと信仰のイエスの乖離です。いわゆる歴史的事実と信仰的事実にかなりの隔たりがあるというのです。また編集史学派から、イエスに関する多くの記述が、聖書記者達の信仰的視点からの「編集句」(挿入句)であるとの結論が出され、真理の客観的根拠とされた聖書主義が揺いでいます。
例えば、福音書の中の3回の受難予告「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえる」(マルコ8.31、マルコ9.31、マルコ10.33)、贖いの聖句「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」(マタイ26.28) などが聖書記者の判断による編集句だというのです。
こうして信仰義認の教理を客観的に担保してきた聖書の信頼性は急速に低下してきました。 そして、十字架信仰への過度な集中により福音書解釈に偏りが生まれています。キリスト教は、イエスが天の初穂として復活されたことにより誕生したものですので、むしろ十字架より復活に力点が置かれるべきであるという訳で、筆者もこの見解に賛同いたします。
【キリスト教社会における道徳律の衰退、信徒の減少、救いへの手詰まり感】
聖書の信頼性への疑問は、聖書解釈の齟齬(そご)や混乱だけでなく、実際の信仰生活の現場にも影響を及ぼしています。
<道徳律の衰退>
現在、キリスト教社会における道徳的退廃は、今や目を覆う惨状にあります。特にそれは、フリーセックス、離婚、同性愛・同性婚(LGBT)問題、幼児への性虐待など性の乱れに集中しています。また人種差別・人種対立、貧富の格差、テロや暴力の横行も無視できません。
これらの現象は、「汝、姦淫するなかれ、殺すなかれ」とした聖書の威光が陰りを見せている証左です。我が内村鑑三も、キリスト教国家アメリカの道徳的衰退を目の当たりにし、また憧れていたキリスト教会の在り方にも失望して、「日本的キリスト教の創造」をテーマに帰国しました。
そして上記のような性的退廃は、聖職者にも及んでいます。UCで祝福結婚を行ったミリンゴ元カソリック大司教は、カソリックの独身制が抱える矛盾を次のように指摘しました。
「悲しいことに、多くの修道者が、この本来の望みと独身の誓いとを調和することができずにいます。不自然な情欲、私生児、その他の隠された恐ろしい出来事を含む、あらゆる種類の冒涜は、神に仕えようとする者たちの生活に重くのしかかっています。司祭や修道女の中に同性愛や妊娠が増加していることは、もはや周知のこととなりました」
<信徒の減少・救いへの手詰まり>
そして教会の信徒の減少に歯止めがかかりません。ヨーロッパでは日曜日の礼拝参加者が激減し、ロンドンの大きな教会が売られてイスラム教のモスクに変わっているというのです。日本でも同様で、ザビエル以来、クリスチャン人口が1%を超えたことがないだけでなく、信者の高齢化が進み、10年後には教会の半分が壊滅するのではないかとさえ危惧されています。
結局これらの現象は、福音における「救いの確証」に確固たる確信が持てないことに原因があり、その結果信仰的実践が伴わないというところにあると言わざるを得ません。聖書霊感説に立つ中川健一牧師は「聖書研究から日本の霊的覚醒を!」との標語を抱えて日々努力をされておられますが、「自分が40年前に牧師になった時と比べても、むしろ教勢は劣化しているのではないか」と苦しい胸の内を吐露されました。
今ほど救いへの信頼と確証を取り戻す躍動的なリバイバルの波、新しい聖書の解釈理念を有する第三の宗教改革が待ち望まれる時はありません。
【世界平和への無力感】
1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、1991年12月にソ連が崩壊して、第三次世界大戦ともいえる冷戦が終結しました。私共は、神なきヘレニズムの集大成、最後のサタンの代理人とも言うべき共産主義が崩壊して、新しい天と地(黙示録21.1)が到来するかもしれないとの期待に胸を膨らませていました。
しかし、その後の歴史が証明する通り、世界は新たな戦争、即ち人種間、民族間、宗教間などの紛争に晒されることになりました。2011年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件に端を発するアフガニスタンやイラクでの戦争、ISイスラム国の国際テロ、パレスチナ紛争、イラン・北朝鮮による核の脅威などの紛争に晒されています。
そして何よりも中国共産党による無神論的世界秩序の形成が一層世界を不安に陥れています。ソ連共産主義の崩壊により世界平和が実現するどころか、世界は中国を中心とした無神論国家との新たな戦い、いわば「第三次世界大戦Part2」ともいうべき段階に入っていると言わざるを得ません。今、世界を震撼させている中国武漢発のコロナパンデミックはそれを象徴しています。
そうして、これらの重要な課題に、キリスト教は有効な理念や解決策を提示できず、手をこまねいているのが現実です。世界平和という理想の前に無力さを露呈しているキリスト教に、イエス・キリストが示した「神の国」(マルコ1.15)はいまだ遠いと言わざるを得ません。
上記の通り、聖書とキリスト教は、聖書解釈の混乱、教派の乱立と対立、道徳的退廃、信徒の減少、救いの手詰まり、世界平和への無力感、といった深刻な課題を抱え苦しんでいます。これらは、聖書の限界を示すもの以外の何にものでもありません。
内村鑑三がその再臨運動の中で「基督再臨とは万物の復興である。また聖徒の復活、神政の実現である。人類の希望を総括したもの、それがキリストの再臨である」(関根正雄編著『内村鑑三』)と述べていますように、神による平和の到来、聖書と教会が抱えている全ての課題は、キリストの再臨の中にその最終的な解決があると筆者もまた信じるものです。
【未解決の聖書の奥義】
前記した「聖書解釈の混乱と教派の乱立」にも関係しますが、おしまいに、キリスト教において、未だ未解決になっている「聖書の奥義」、確定されざる「神学上の論点」について、いくつか指摘しておきたいと思います。
a.先ず第一に、創世記3章の有名な失楽園の物語の解釈、特に天使やエバの堕落の動機、経路、原因に関する奥義です。
この章は、創世記1章、2章で神に似た善なる存在として創造された人間が、蛇の誘惑で堕落し、罪(原罪)を持った罪悪人間に堕ちたという人間の堕落物語が比喩的、象徴的に示されています。この堕落の原因について、堕落高慢説、堕落嫉妬説、堕落自由説、など諸説ありますが、キリスト教神学において、未だに確たる定説はありません。
有力説としては、天使が神のようになろうとして高慢になって堕落したという説がありますが(イザヤ14.12~15)、堕落の動機や原因を体系的に説明した解釈はありません。この点、原理では、堕落淫行説を採っていることはいうまでもありません。
b.次に、創世記4章の解釈、つまり弟のアベルの供え物をよしとし、兄カインの供え物は顧みられなかったことの不条理から(創世記4.4)、カインがアベルを殺したという物語をどう解釈するかという問題です。
実は聖書には、「兄が弟に仕える」「神は弟を愛し、兄を憎んだ」というメッセージが多々出て参ります。即ち「歴史の二流」の問題であります。
イサクの双子である兄エソウと弟ヤコブに関して、産まれる前から「兄は弟に仕える」(創世記25.21)とあり、「ヤコブを愛しエソウを憎んだ」(ロマ書9.13、マラキ1.2)とあります。 タマルが産んだ双子の兄ゼラと弟ベレツにおいて、ベレツがゼラを押し退けて胎内から出たとあります(創世記38.28) 。また、ヨセフの子であるマナセとエフライムについても、ヤコブは兄マナセを差し置いて弟のエフライムを先に祝福しました(創世記48.12~14)。更に、ダビデも末の子であり(1サムエル16.11~12)、ソロモンも弟でした。(2サムエル5.14)
このように、聖書には、神は兄よりも弟を先に祝福するというメッセージがあります。そして、神は「何故兄よりも弟を祝福されるのか」という一見不条理に見える聖書の記述を、一体どう解釈すればいいのでしょうか。 この問題は、神の予定の絶対性で説明したり、信仰上の問題提起として解釈することもありますが、結局整合性のあるきちんとした解釈はなく、神学上の未解決の難問として残されています。
原理では、これを堕落の経路から説明し、神の救済摂理における長子権復帰という視点から解明しています。またアベル(弟)より、むしろカイン(兄)の方が、憎まれ役としてより重い復帰摂理上の責任を負っていたと言え、兄が弟を善なる供え物として、家庭を代表して捧げるという重要な役割を担っていたというのです。
c.第三点はマリアの処女懐胎に関わる奥義です。
聖書の比喩・象徴・寓話などの暗示をいかに解釈するかに関して、聖書の重要奥義である創世記3章と創世記4章を見てきましたが、最後に、マタイ1章20節、ルカ1章35節に記載がある「マリアの聖霊による処女懐胎問題」を考えたいと思います。
このマリアの処女懐胎問題には、やはり諸説あります。 全能の神の介入による「処女懐胎説」は、伝統的なキリスト教の解釈であります。しかし、処女懐胎説は、科学や生物学的見地から非合理だと批判する「反処女懐胎説」も根強く、聖霊誕生説はイエスの神性を正当化するために教会が作り出したものだと主張する見解があります。
またタルムードには、ローマ兵パンテラとマリアとの性関係が指摘され、ハルナックは婚約中のヨセフとの間に身籠ったといった「私生児説」があります。更に英国作家マーク・ギブス著「聖家族の秘密」には、イエスの父はザカリアであることが述べられています。つまり、聖母マリアの処女懐胎説はイエスの神聖を強調するための創作であるというのです。
聖母マリアの処女懐胎に関連して、キリスト教神学における最大の難問として、「罪ある女性から、如何にして罪なきキリストが生まれ得るのか」という問いがあります。この難問はマリアの処女懐胎と密接な関係があると思われますが、いまだに未解決の問題として残されています。
この点、この「罪ある血統から如何にして無原罪のメシアが生まれ得るか」という難問は、創始者が明らかにされた「血統の転換の法理」で解明されているところです。
以上、聖書の未解決の重要奥義を三点取り上げましたが、この他にも、イエスの十字架が必然だったかどうか、十字架の贖罪が十全な救いをもたらしたかどうか、イエスの復活は肉体を伴うものかどうか、そして神学上の三位一体論を巡る議論など、多くの未解決の論点が山積しています。
これらは、当に黙示録5章にある通り、「七つの封印」で封じられた聖書の奥義であり、この封印を解かれる「ダビデの若枝」(黙示録5.5)による解明が待ち望まれるところです。 最後に『御旨と世界』の「創立以前の内的教会史」より、創始者の「み言」を抜粋したいと思います。
「原理が明かされるまでは、数多の哲学者や宗教家はあれど、誰一人として秘められた神の心情と聖書の真義について知る者はなく、霊的には暗闇に覆われているかのような世界でした。そして、その闇の中に昇った明るい太陽のごとくに現れた先生は、すべての宇宙の原理を詳細に明かしました。今や万人が、真理の光に照らし出された神の真の像と、歴史の真像を知ることができます」
「先生は、真理を理論的に解明し発表しただけでなく、真理に生きた人です。実人生における体験を通して宇宙の真理を知ることができました。そしていち早く、その原理を知ってここにいるあなた方は、いわば霊的エリートといえるかもしれませんが、事実は特別な啓示を受けたわけでもなく、人並み優れた高い良心基準をもっていたわけでもなく、別段エリートらしき何ものもない、たまたまそこに居合わせた見物人のような立場でありながら、どうして幸運にもここに来ることができたのでしょうか。それは原理自体の力によるのです。原理には、神の直接の啓示にはるかに勝って、人間を指導し造り変える偉大な力がありますから、原理を知ること自体が、啓示や高い良心基準の役割を果たしたのです」
以上、今回は聖書が抱える重大な課題について論じてきました。こうして聖書は多くの問題や限界を持つキリスト教の経典でありますが、それでもなお、人類に多大な影響を与え続けている聖典であることに異論はありません。 (了)