🔷聖書の知識105-アモス書注解
彼は言った、主はシオンからほえ、エルサレムから声を出される。牧者の牧場は嘆き、カルメルの頂は枯れる(1.2)
わたしはわが民イスラエルの幸福をもとに返す。彼らは荒れた町々を建てて住み、ぶどう畑を作ってその酒を飲み、園を作ってその実を食べる(9.14)
【概観】
アモス書は全9章で構成され、キリスト教では12小預言書に分類されています。
1章1節によれば著者はアモスで、テコア出身の牧夫(農夫)であったといわれ、出身地はユダ王国であると思われます。時期については1章1節から、ウジヤ(ユダ王国)、ヤラベアム2世(イスラエル王国)の時代、地震の2年前より開始されたとの記述があり、アモスはエリヤ、エリシャに次ぐ北イスラエルにおける初期の預言者(前770〜750年頃)であります。
つまり、南王国出身ベツレヘム近くの田舎に住むアモスが、北王国ベテルで預言を行ったわけです。ベテルは、北王国における宗教の中心都市で、その意味で彼は、「都に上ってきた田舎説教者」であります。そしてアモスとは、「重荷を負う者」という意味です。
「テコアの牧者のひとりであるアモスの言葉。これはユダの王ウジヤの世、イスラエルの王ヨアシの子ヤラベアムの世、地震の二年前に、彼がイスラエルについて示されたものである」(1.1)
内容は大きく3つに分けることが出来ます。
a.近隣諸国の民・南ユダ・北イスラエル・イスラエルの指導者に対する裁きと悔い改めの要
求(1~6章)
b.裁きについての5つの幻(7~8章)
c.イスラエル回復の希望(9章)
イスラエルの王ヤロブアムの時代は、物質的には繁栄した時代であり、ウジヤもヤロブアム2世も有能な王で、それぞれの国に繁栄をもたらしました。
しかしこの時代は、偶像礼拝が蔓延し、道徳的、宗教的頽廃が進んだ時代でもあり、ベテルはダンとともに、金の子牛が設置された「偶像礼拝の町」であり、アモスはイスラエルに行き、ベテルで裁きの預言を語りました。
【神の裁きと回復】
<諸国に下る裁き>( 1 ~ 2 章)
「三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために」という表現は、罪の満ちるさまを描写したものであり、異邦人諸国は、イスラエルに対して行った罪のゆえに、裁かれるというのです。
裁かれる諸国で、ダマスコ(シリヤ)、ガザ(ペリシテ)、ツロ(フェニキア)の3国はイスラエルとは血のつながりのない民、エドム、アモン、モアブの3国はイスラエルと親戚関係に当たる民、ユダはイスラエルと兄弟関係にある民です。
「主はこう言われる、ユダの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれを罰してゆるさない。これは彼らが主の律法を捨て、その定めを守らず、その先祖たちが従い歩いた偽りの物に惑わされたからである。それゆえ、わたしはユダに火を送り、エルサレムのもろもろの宮殿を焼き滅ぼす」(2.4~5)
<北イスラエルに下る裁き>( 3 ~ 6 章)
イスラエルは地上の民族の中で、特殊な地位を与えられました。即ち、主によってエジプトから解放された民であり、主は、イスラエルの民を選ばれ契約関係に入られて特権を与えられました。
しかし、選ばれた者には多くの責任が伴い、その特権にふさわしい歩みをしていないので裁かれ、その裁きは、一般の諸国に対するものよりもさらに厳しいものとなるというのです。
イスラエルは預言者に耳を傾けず、イスラエルの民は、サマリヤにある宮で「暴虐と冒涜を重ねて」いました。
「わたしはイスラエルのもろもろのとがを罰する日にベテルの祭壇を罰する。その祭壇の角は折れて、地に落ちる。わたしはまた冬の家と夏の家とを撃つ、象牙の家は滅び、大いなる家は消えうせると主は言われる」(3.14~15)
< 5 つの幻>( 7 ~ 9 章)
アモスが見た最初の3つの幻、「いなごの害の幻」、「燃える火の幻」、「重りなわの幻」はアッシリアの侵略を象徴しました。
アモスが見た最後の2つの幻、「一かごの夏のくだものの幻」、「祭壇のかたわらに立つ主の幻」は、イスラエルの上に裁きの時が近づいていることを象徴したものでした。
「わが民イスラエルの終りがきた。わたしは再び彼らを見過しにしない。その日には宮の歌は嘆きに変り、しかばねがおびただしく、人々は無言でこれを至る所に投げ捨てる」(8.2~3)
<イスラエルの回復>
最後の5節は、イスラエルの希望についての預言で、アモス書は、希望のメッセージ、ダビデの家(王朝)の復興を預言して終わります。
「その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建てる」(9.11)
「わたしはわが民イスラエルの幸福をもとに返す。彼らは荒れた町々を建てて住み、ぶどう畑を作ってその酒を飲み、園を作ってその実を食べる」(9.14)
【主の日の思想】
アモス書には、次の預言者ヨエルの前ぶれとなる「主の日」の概念が出てきます。主の日(終わりの日)の思想は、アモスから始まる終末思想と言われています。
「わざわいなるかな、主の日を望む者よ、あなたがたは何ゆえ主の日を望むのか。これは暗くて光がない」(5.18)
また、新約、成約において、アモス書から引用があります。
「その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建てる」(9.11)の聖書箇所は、使徒行伝15.16で引用されています。
「その後、わたしは帰ってきて、倒れたダビデの幕屋を建てかえ、くずれた箇所を修理し、それを立て直そう」(使徒15.16)
更に、原理講論では次の聖句が引用されています。
「まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」(3.7)
以上、アモス書を概観いたしました。前回も述べましたが、預言者は、民に対しては不信仰を叱責し、指導者に対しては腐敗を糾弾して、悔い改めを迫るのが使命であり、アモスもまた同様でした。次回はオバデヤ書の解説です。(了)
上記絵画*預言者アモス(ギュスターヴ・ドレ画)