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セミナー「久保木会長の思想と信仰」 UC大艱難の羅針盤

◯徒然日誌(令和6年8月21日)  セミナー「久保木会長の思想と信仰」-UC大艱難の羅針盤 

 

わたしはあなたと共にいて、あなたを守り、わたしは決してあなたを捨てない(創世記28.15)

 

先週、川崎教会にて「久保木会長の思想と信仰」とのテーマでセミナーがあり、筆者は講師として参加した。一回目は「求道者久保木修己」、二回目は「宗教家久保木修己」だったが、今回は三回目で「愛国者久保木修己」が主題であった。久保木修己元UC会長(以下、「会長」と呼ぶ) が有する3つの顔、即ち、「求道者」、「宗教家」、「愛国者」という3つの側面から、それぞれ論評した。 

 

【『久保木修己著「愛天愛国愛人」を読み解く』】 


実は筆者は3年前、『久保木修己著「愛天愛国愛人」を読み解く』という本を出版した。筆者がこの本を書くようになった動機の一つは、旧約聖書の『出エジプト記』を読み直しながら、「モーセの路程は会長と瓜二つではないか」と実感したことである。異国での誕生(満州)、宮中での帝王学(立正佼成会での帝王学)、ミデアン荒野出発(UC入信)、シナイ山で十戒(厚木大山での神秘体験)、荒野40年(UCを率いる)、モアブでカナン目前で死去(病気で死去)など、まさにタイムスリップしたように感じられ、会長が「日本(UC)のモーセ」と言われる意味がよく分った。 

 

もう一つの動議は、「貴方は、内村鑑三や李登輝や渋沢栄一などの論評をしながら、何故肝心の久保木会長について書かないのか」というお叱りにも似た信徒からの声を複数頂いたことである。確かに、1964年(33才)に統一教会(以下、「UC」と呼ぶ)の初代会長に就任し、1991年(60才)まで28年にわたって会長職を務められた方であり、私たち信者にとって無関心でいることは出来ない。その後の歴代会長が短期間で何人も交代して安定しなかった歴史を思えば、UCの初期から28年もの間、変わらず会長として立たれたことは、教会の基礎づくりにとっても、信者の信仰的安定にとっても、計り知れない幸いであった。その会長が、どのようにUCに導かれ、どういう信仰と思想を持ち、どのような歩みをされたのかを正しく知ることは、私たちの信仰の良き羅針盤になる。 

 

しかしこの本は単なる会長の伝記ではなく、また、会長を美化し、神話化するものでも毛頭ない。現に会長は、原理に出会うまでは「聖書の知識は皆無だった」と率直に告白されている。むしろ本書は、仏教とキリストの接点、召命と神秘体験、勝共運動の本質、母性国家と日本の天職、日韓宿命国家、文鮮明先生との親密な関係など、久保木修己という人物を通してこれらの重要なテーマを論じたものである。いわば 会長を通して見る「宗教論(信仰論)」、「共産主義論」、「日本論」、「日韓論」、「メシア論」であり、久保木修己著『愛天愛国愛人』を再論評したものである。そして今回のセミナーでは、この拙著『久保木修己著「愛天愛国愛人」を読み解く』を教材に使った。なおこの本はアメリカの神学大学教授からも高く評価されている。 

 

【求道者・宗教家】 

 

当該セミナーで、先ず最初、会長が求道者、宗教家としてどのような道筋を辿って原理の信仰にたどり着いたのかを簡潔に述べた。 

 

<求道者>

 

1931年2月3日、父仙蔵、母よしの長男として満州の安東市で誕生した会長は、父親の転勤に伴い、チチハル、西安、満州、北京を転々とし、その間、九死に一生を得ることもあった。幼少期、中国人、朝鮮人との濃厚にして友好的な関係を築いたことは、その後の韓国観、文鮮明観に大変よい影響を与え、韓国人に対する偏見は皆無だった。1945年(14歳)に日本に引き揚げ、千葉県香取在原中学・慶應義塾中等部、慶応高校(高校の野球部で、甲子園に2回出場した)を経て慶応大学に学んだ。しかし、日本に引き揚げたものの、美しい祖国日本への失望などからヤクザの世界と交わり、母親を苦しませたこともあった。 

 

高校時代、母親から勧められ、立正佼成会の門を叩き、佼成会青年たちの滅私奉公の姿に感銘して入信した。大学時代は布教に勤しみ「布教の王者」の異名を得る。長沼妙佼副会長、庭野日敬会長の知遇を得て、佼成会の青年部長や庭野会長の秘書、野球部監督などを歴任した。しかし、佼成会での曲がり角を迎え、特に罪の根源の問題で苦しみ、仏教哲学に詳しい小宮山嘉一青年と法華経の教学について徹夜で議論して求道した。 

 

1962年8月(31歳)、小宮山青年に導かれ、馬橋のUCの聖日礼拝にはじめて参加した。ここでも滅私奉公の青年の姿に感銘し、13年間の佼成会での歩みを終え、UCに入信したのである。ちなみに小宮山氏は、京都で一年間寝食を共にし、「真理を探求するということはどういうことか」を教えられた筆者の恩師でもある。 

 

<宗教家として立つ-神秘体験> 

 

さて会長は、1962年12月10日~1963年1月20日、UCの40日原理修練会に参加した。感動の修練会で、罪の根源や法華経の未解決問題が解け、終了後、厚木の大山に登山し、断食談判祈祷の修行を慣行したのである。真理面だけでなく、神霊的に生きた神体験をしたいという内心の強い欲求である。 

 

そうして断食5日目の1963年2月3日、遂に大山頂上にて「劇的な神秘的神体験」をして回心した。かの若き空海が、室戸岬の洞窟(御厨人窟・みくろど)で100万回の求聞持法修行中、「輝く明けの明星が口の中に飛び込んでくる」という神秘体験をしたが、会長は、神の紅蓮の雲状の渦巻きが口に飛び込んで来るという神秘体験をしたのである。そして怯む会長に、神は「私が共にある」と言われた。神がハランに向かうヤコブに「わたしはあなたと共にいて、あなたを守る」(創世記28.15)と言われた通りである。そしてこの瞬間こそ、まさに宗教家久保木修己の誕生であった。なお、この間の詳細は、著書『愛天愛人愛国』(P80~P85)に記載されている。そうして1964年(33歳)、UCの初代会長に就任した 。 

 

【愛国者の道】 

 

会長は、宗教家として稀に見る優れた霊的感性の持ち主だが、それにもまして特筆すべきはその愛国精神と渉外能力である。これらはまさに神の賜物であった。その賜物は、国際勝共連合の発足によって開花する。 

 

<国際勝共連合> 

 

1968年4月、岸信介、笹川良一、児玉誉士夫を発起人とし、名誉会長を笹川良一とする「国際勝共連合」が発足した。即ち、1968年4月1日、文鮮明先生(以下、「創始者」と呼ぶ)の指導のもと、UC信者が母体となり「国際勝共連合」が設立され、会長は初代会長に就任した(37才)。当時60年代の日本は、高度成長と共に、大学や革新自治体などに左翼が進出し、また米ソの冷戦の激化やベトナム反戦運動の中で思想的動乱期にあった。 

 

「このままでは日本が滅びる」との愛国者としての危機感と、「神を否定する哲学を許せない」という宗教家としての信念から、「共産主義は間違っている」とのスローガンを掲げて、大学や街頭での宣伝や黒板講義など、草の根的な勝共運動をスタートさせたのである。 やがて「勝共に久保木あり」との称賛と期待が国家指導者の間で生まれてくる。 

 

<勝共運動の本質的意義> 

 

では勝共運動の本質的意義とは何だろうか。会長は次の3点を指摘された。 

 

先ず第一に、勝共とは「滅共」であると共に「救共」でもあるという。共産主義という思想を憎んでも、共産主義者は救いの対象であるというのである。創始者が恩讐のゴルバチョフや金日成と和解されたようにである。 

 

第二に、勝共運動は神を回復する愛国運動であり、キリスト教的な「神主義」(ゴッドイズム)を基本理念としているという点である。共産主義の本質を「神を否定する思想」、即ち「神への反逆の思想」と捉える社会啓蒙(教育)運動である。会長は、「共産主義は神と人間を断絶させ、神を葬り去ろうとした思想です。つまり神の敵であり、故に人類の敵です」(『愛天愛国愛人』P100)と言われた。 

 

そして第三には「内なる罪と戦う姿勢」という視点を強調された。共産主義は憎悪と反逆を動機として、人間の罪の性質(堕落性)を理論化して現れた思想である。従ってその思想と戦うには、自らが内なる罪と戦う姿勢が不可欠で、問題の中の最大の問題は、自分自身が「絶え間ない戦場」であるという自覚であるという。 

 

そして次のように総括された。 

 

「神の喪失と愛の喪失、これらを見失っているところに、人類の最大の不幸がある。故に勝共運動の本質的意義は、これらの二つを再発見することによって、世界の真の平和を実現することに帰着するのです」(著書P102)

 

これを筆者流に翻訳して言えば、まさに神の復権を目指す「福音運動」そのものである。 

 

<共産主義とキリスト教> 

 

マルクス主義は、キリスト教を反面教師にした理論、即ち、聖書的な世界観、歴史観をひっくり返した思想であり、キリスト教の腐敗した温床の中から生まれた人間中心主義の「ヘレニズムの集大成」である。原理講論総序には次の通りの指摘があり、少し長いが引用する。 

 

「ローマ帝国のあの残虐無道の迫害の中にあっても、むしろますます力強く命の光を燃え立たせ、ローマ人たちをして、十字架につけられたイエスの死の前にひざまずかせた、あのキリストの精神は、その後どうなったのであろうか。悲しいかな、中世封建社会は、キリスト教を生きながらにして埋葬してしまったのである。初代教会の愛が消え、資本主義の財欲の嵐が、全ヨーロッパのキリスト教社会を吹き荒らし、飢餓に苦しむ数多くの庶民たちが貧民窟から泣き叫ぶとき、彼らに対する救いの喊声は、天からではなく地から聞こえてきたのであった。これがすなわち共産主義である。かくしてキリスト教社会は唯物思想の温床となったのである。彼らの実践を凌駕する力をもたず、彼らの理論を克服できる真理を提示し得なかったキリスト教は、共産主義が自己の懐から芽生え、育ち、その版図を世界的に広めていく有様を眼前に眺めながらも、手を束ねたまま、何らの対策も講ずることができなかったのである」(原理講論総序より抜粋)

 

マルクス自身、ユダヤ人ラビで後にプロテスタントに改宗した父母を持ち、彼自身も17才まではキリスト教を信奉して、聖書の世界に馴染んでいた。しかし、疎外感から神に反発するようなり、ベルリン大学時代に「反キリストグループ」に入り、遂に神への復讐を誓うようになる。まさにマルクス主義は、聖書的な世界観、歴史観をひっくり返した思想であり、次のような特徴がある。

 

①キリスト教は世界の本源を神とするのに対して、マルクス主義は、神の代わりに物質を本源とする。即ち、精神は物質の所産であるとした。 

 

②キリスト教は歴史を、「神とサタン、善と悪の闘争」と見るが、マルクス主義は資本家と労働者との「階級闘争」と見る。 

 

③キリスト教は終末に再臨主が来臨し、最後の審判を行い、神の国が到来することを予言したが、マルクス主義は、生産力と生産関係の矛盾、即ち階級矛盾の桎梏により革命が勃発し、「プロレタリアという救世主」によって階級なき労働者の社会が実現すると宣言した。 

 

そしてこれらを理論付けたのが、存在の矛盾対立性を普遍化し、神を理論的に否定した「弁証法的唯物論」、階級闘争を核とした「唯物史観」、そして労働価値説に立つ「マルクス経済理論」(資本論)である。更に共産主義は、怨念を体系化した歴史上未曾有の反キリスト的な理論体系であり、まさにヘレニズムの集大成、完成期的な「原理型非原理思想」と言える。 

 

第三次世界大戦の前半戦とも言うべき共産主義との戦いは、1991年のソ連共産党の解体によって、神側の勝利に終わったが、今やもう一つの第三次世界大戦の後半戦が残っている。それこそ、「見よ、炎のように赤い大きな竜」(ヨハネ黙示録12.3)に象徴される反キリストたる「中国共産党」との戦いである。更には、家庭の価値の破壊を目指す形を変えた共産主義である「文化共産主義」との戦いが残っており、LGBT法案の成立はその象徴である。 

 

<WACL世界大会と国際人脈の形成>

 

さて会長を名実共に愛国者として世界に押し上げたのが、1970年9月20日、日本武道館で2万数千人を結集して開催されたWACL(World Anti-Communist League 世界反共連盟)世界大会である。国際勝共連合が中核となり、アメリカ上院議員の重鎮であるサーモンド議員やカストロ首相の実妹のカストロ女史など世界53ヶ国から参加した。ちなみにWACLとは、台湾の蒋介石総統や韓国の李承晩大統領が音頭をとって作った「アパクル」(アジア人民反共連盟)を、朴正煕大統領と蒋介石が協力して「WACL」(世界反共連盟)へと世界組織に発展させたものである。 

 

会長は大会議長として平和宣言を読み上げ、共産主義と戦う最大の武器は、「愛と勇気と許し」であり、「神の神による神のために平和こそが最大の目的である」ことを宣言した(著書P119)。ちなみにワクル讃歌「愛の統一」は詩や音楽にも秀でた会長の作詞作曲による。 

 

会長はWACL日本大会を前後して世界の要人と次々と会っていった。1970年9月2日、朴正煕韓国大統領との会談、1971年5月14日、蒋介石総統との会談、同年6月14日、パウロ六世ローマ法王と会見等々である。 

 

1970年9月2日、WALC大会の2週間前、会長は岸信介元首相から直筆の推薦状を頂き、朴大統領と会うことができた。実は岸氏と朴大統領は満州時代からの知り合いで、当時満州国の主要官僚であった岸氏と満州日本軍の将校であった朴大統領は親交があったのである。その後朴大統領がクーデターで政権を握った後も、岸氏を政治の師匠として尊敬していたという。会長は朴大統領に気に入られ、15分の面会時間は1時間以上に及び、特に朴大統領は日本民族を高く評価されていたということだった。ある時、大統領官邸でのパーティーで、朴大統領は39才の会長の手を引いて、「この久保木さんという人を私は高く評価しているのですよ」と言って、日本の国会議員や大使館員らに紹介されたというエピソートが残っている。 

 

また、1971年5月14日、会長は世界反共連盟主席の谷正綱氏の尽力で蒋介石台湾総統(83才)と会われた。20分の約束が1時間以上におよび、会長は中共承認反対の署名運動の様子などを説明した。1年後の1972年、2度目の会談の時には、意を決して「台湾は今独立すべきです」と創始者の「み言」を伝えたという。後日蒋介石の日記には、「久保木という男がきて独立のことを言った。非常に大切なことだ」としたためられていたという。遠山満や犬養毅から武士道を学んだという蒋介石は熱心なクリスチャンでもあり、キリストの「汝の敵を愛せ」とのみ言の通り、蒋介石が戦後の日本のために語った言葉「恨みに報いるに徳を以てす」(老子)は有名である。 

 

ちなみに国連で中共が承認されることに反対するため、また蒋介石の戦後処理のご恩に報いるため、勝共連合は、日比谷で3000名の一週間断食、国連前で30人で3日間断食抗議を行ったことがある。これには台湾国会議員244名が署名した感謝の電報が届き、また国連前には台湾カトリックのユー・ビン枢機卿が激励に来た。 

 

更に会長は東南アジア、インド、イラン、トルコ、イスラエルなどを歴訪した後、1971年6月16日、親交していたユー・ビン枢機卿の仲介でローマ教皇パウロ6世との会談が実現した。会長は教皇に「極東アジアに関心をもって下さい」と訴えたという。 

 

これら会長の優れた渉外能力は、誰も真似の出来ない神の賜物に他ならない。 

 

<国会議員に尊敬された久保木会長> 

 

また会長は帝国ホテルに事務所を構え、ここを拠点に多くの国家議員と会われた。そして1990年前後には、衆参両院に200名近くの「勝共推進議員」と呼ばれる議員がいた。1990年2月の「勝共推進議員の集い」には約150名もの国会議員が集結し、安倍晋太郎議員が代表して祝辞を述べた。岸信介、安倍晋太郎、安倍晋三と続く岸家三代は、勝共連合・UCとは極めて近い関係にあったのである。日本の背骨ともいうべきこの三代は、まさに天が召した選ばれた家系である。2022年7月8日、三代目の安倍元首相が暗殺されたが、この死によって、安倍元首相はリンカーン大統領のように伝説になり、岸家三代は、文字通り日本とUCの守護神に高められた。 

 

1992年に金丸信議員の口添えで創始者が来日された際には、国会で50名もの国会議員が集まって創始者の話を聞きく集会があった。実はその頃、いわゆる霊感商法問題の最中であり、マスコミのバッシングに晒されていた。その逆風の中で、韓国人文鮮明の話を聞くために、これだけの議員を集められる会長の人望の厚さに驚嘆するしかない。 

 

翻って現下のUCは、2022年7月8日のあの安倍事件以来、未曾有のバッシングを受け、岸田首相や自民党からは、「UCとは断絶する」との宣告を受けた。果たして霊界の会長は、今この時のUCの姿をどのように見つめておられるだろうか、あれだけ良好な関係を築いてきた保守政治家から全否定される事になったUCを見て何を感じておられるだろうか、そして今会長がおられたらどのように対応されるだろうかと、筆者は自問自答した。 

 

【日本論】 

 

さて筆者は、セミナーの締め括りに会長の「日本論」について言及した。会長は、31年間に渡り、数千回もの講演をされたが、その内容は大きく、①共産主義とどう向き合うかを論じた「共産主義論」、②環太平洋・東アジア時代の到来に関する「東アジア論」、そして、③ 日本の特性・進路・役割を論じた「日本論」の3つにわけられる。 

 

会長は著書『愛天愛国愛人』の中で、「日本文化の特質は女性的性格にある。その女性的特質を生かして母性国家となるべきである」(P206)と明記されている。会長の日本観、日本への情念は、日本というこの国を、いかに母国として神にお還しするか、即ち神への大政奉還に心血を注がれた人生だった。 

 

<美しい国・日本ー日本の自然> 

 

先ず、日本という「美しい国」について語られると共に、日本の使命について語られた。(著書『美しい国日本の使命』世界日報P14)

 

日本は、縦に長く、南北3000キロの列島と、6852の島々によってなり、全体的に女人が横たわっているような形をしているという。また温暖ではっきりした春夏秋冬の四季を持ち、自然災害はあるものの、豊かな緑の山河、きれいな水、清浄な空気に恵まれている。更に回りは峻険な海に囲まれ、古来、この海が天然の要塞の役割を果たして、周りからの敵を寄せ付けなかったのである。 

 

こうした自然を背景に、神は日本を「神の国の雛型」にするべく、日本人を、信義、和の精神、優しい穏やかな民族に育成されたという。かって創始者は「日本は嫁入り前の乙女のようだ」と語られたことがあるが、神が日本を必要としているように、サタンも狙うというのである。まさにエデンの園において「善と悪の実」として象徴されるエバのようである。 

 

それにしても、日本ほど四季の移り変わりがはっきりして美しい国はない。日本人は、縄文時代から自然を友とし、自然を糧として、共生して生きて来た。「自然を崇め、先祖を祭り、和を重んじる」精神は、古来日本の伝統文化である。 

 

<日本の特質>

 

また会長は、集団主義的な傾向が、日本の特質の一つだと語られた。それは、縄文・弥生時代以来の農耕型社会の定住性と集合性、そして島国という地理的な環境が影響しており、一つにまとまり安い環境にあるという。 この集団志向、共同体意識自体は悪いものではないが、その結果「個の自覚の喪失」につながると指摘された。集団への忠誠や公への志向性は、私心を嫌う心性を醸成すると共に、個を軽視する文化、即ち、個性の自覚なき性格を形成し、この没個性・没主体性こそ、ある意味で女性的性格と言えるのではないかと言うのである。 

 

「女性的とは、動的より静的、意思的より受身的、論理的・抽象的より情緒的・感覚的な性質と言います。それゆえ、他人志向的、没個性的、没主体的な日本文化は女性的と言っても差し支えない」(著書P207)

 

但し、これには反論もある。日本には武士道、大和魂、愛国心、と言った主体的な思想があり、特に武士道は没個性的、没主体的どころか、自らの意思と責任において、時には命を賭して行動するという男性的気質であるというのである。しかしこれも、主君を絶対とし、主君のために己をなくして忠誠を誓うという「没個性的忠誠」であり、滅私奉公的色彩が強いというのだ。儒教の教えに「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」という言葉があるが、ここに主君のあり様より、先ず臣下のあり方を問うといった忠誠の極致がある。 

 

つまり東洋人は全体の中に個があると発想し、西洋人は個によって全体が成り立つと考えてきた。従って西洋では個人主義が発展し、ここから自由や人権の思想が生まれたが、東洋に根付いて来たのは個人主義よりむしろ家族主義だったのである。古来、全体と個を如何に調和させるかは重要課題であり、個人主義の行き過ぎは放縦や高慢をもたらし、東洋的思考は独裁や人権侵害を生む土壌になりかねない。 

 

そして日本のもう一つの特性は「多神教」である。日本は「八百万の神」で象徴されるように、異論はあるものの総じて「多神教の国」であると言われている。そして、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教が、規範的・原理的で、「父なる神」という厳格な男性的イメージがあり父性的であるのに対して、日本の多神教は、天照大神に象徴されるように、許しと包容の母性的なイメージがあり、和の精神はその象徴である。古来、海洋国家は女性的、大陸国家は男性的と言われているが、この和の精神を有する日本は、対立と混乱を呈する国際社会にあって、「世界の橋渡し」の役割を果たすことが出来ると会長は強調された。一神教は、善悪を厳しく分別し、白黒をはっきりさせる傾向があるのに対し、多神教はより融和や協調を重視するからである。 

 

また会長は、「甘いヒューマニズムが日本を滅ぼす」と題して全国を講演され警鐘をならされた。この「甘いヒューマニズム」、即ち「世俗的ヒューマニズム」は、本来のキリスト教ヒューマニズムから離れて、人間の目線でしか考えない「神なき人間主義」に陥っていると指摘され、過剰な人権尊重という名の世俗的ヒューマニズムは、エゴイズムを助長し、必然的に唯物論と共産主義の温床になると警告された。 

 

そしてこれらの思想は日本を汚染しており、こうした世俗的ヒューマニズムの超克こそ急務の課題であり、これは人生と人間の本質を扱う宗教の復権、即ち「神の復権」によってしかもたらされないと結ばれた。 

 

<日本の天職> 

 

更に会長は、著書『愛天愛国愛人』の「内村鑑三に見る日本の天職」(P184)という項で、内村の著作『地人論』を引用して日本の使命について語られている。内村は地理的に日本を分析し、アメリカとアジアの間に横たわる「日本の天職」は、両大陸を太平洋上で連結する媒介者になることにあると指摘した。 

 

会長はこれを受けて、日本の天職(使命)は、東西大陸の橋渡しになると共に、西洋文明を吸収し、韓半島を通じてアジア大陸に連結することであり、そして逆に、韓半島・アジア大陸から東洋文明を相続して西洋につなぐことにあると語られた。 

 

以上が会長の「日本論」であり、正に思想家久保木修巳の真骨頂である。 

 

以上、川崎セミナーの内容骨子を概観した。今日こうして、信仰人生において何度も引き上げられた大恩ある会長を、幾らかでも語ることができて無上の喜びである。今、日本UCは未曾有の試練の中に晒されているが、どんな時にも底抜けに明るく楽天的だった会長の信仰と精神は、私たちのこれ以上ない羅針盤になる。会長は、岸信介、安倍晋太郎、安倍晋三の三氏の霊と共に働き、私たちを導いて下さると信じるものである。1998年12月13日 午前1時59分死去(享年67才)、揮毫「母奉仕」。(了)     牧師・宣教師  吉田宏

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