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中川健一著『ディスペンセーショナリズム』を読んで 混乱する終末におけるイスラエル論

◯徒然日誌(令和6年8月28日)   中川健一著『ディスペンセーショナリズム』を読んでー 混乱する終末におけるイスラエル論

 

というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。(ローマ2.28~29)

 

この8月23日、UCをはじめ、幸福の科学や神慈秀明会、大本教など超宗教で宗教と政治の在り方を問う「宗教政治研究会」が新宿で開催され、久方ぶりに及川幸久氏が講師をされた。及川氏は、今や動画やネットなどでもお馴染みの著名人で、反グローバリズムの立場から国際情勢を分析し、ウクライナ戦争、イスラエル・ハマス紛争などについても独自の見解を述べている。 

 

及川氏は『伝え方の魔術』という本を書いただけあって、そのスピーチは大変分かりやすく説得力があり、筆者も親しくしておりファンの一人である。にもかかわらず、今回敢えて講義内容について一つの問題提起をした。いわゆる「イスラエル問題」である。良くも悪くも、イスラエルという、いわば世界の急所のような鋭敏な国家を、国際政治の観点から、また聖書的視点から、どのように位置付ければいいのか、これが今回の主題である。 

 

【イスラエル問題】 

 

実は、キリスト教神学の世界では、イスラエルという国をどのように聖書的に位置付けるのかには解釈が分かれており、特に「終末・再臨・エルサレム」は最も重要かつ厄介な論点である。特に、今回考察する「ディスペンセーション神学」と、それと対極にある「契約神学」の間には、イスラエルの扱いにおいて鋭角的な違いがある。 

 

中東は世界の火薬庫と言われて久しく、現在進行中のイスラエル・ハマス紛争、あるいはイスラエル・イラン紛争はその一つである。聖書的に見れば、アブラハムの側妻ハガルの子イシマエルの子孫であるアラブ人(創世記16.4)と、アブラハムの正妻サラの子イサクの子孫であるイスラエル(創世記21.3)との葛藤である。イサクはアブラハムに祝福され、イシマエルは荒野に旅立ち(創世記21.12~14)、それぞれ一つの国民となった。 

 

このイスラエル・ハマスの紛争を巡って、大きくイスラエルを擁護する立場とハマスを擁護する立場があり、『ディスペンセーショナリズム』の著者であり、ハーベスト・タイム・ミニストリーズを主宰されている福音派の中川健一牧師は、聖書的立場からイスラエルを擁護されている。中川牧師はハマスをテロリスト集団として非難し、イスラエルのガザ攻撃を自衛権(生存権)の行使と認めている。一方、日本のほとんどのマスコミはイスラエルのガザ空爆を、残虐なパレスチナ人への無差別殺戮として非難し、また、ワシントン在住で国際政治アナリストの伊藤貫氏は、そもそも1948年のイスラエル建国当時、パレスチナ人を殺戮して追い出したのはイスラエルの方であり、ガザ攻撃をアメリカとイスラエルが結託した不道徳な戦争であると断罪している。 

 

ちなみに伊藤貫氏はアメリカ在住40年のアメリカ通で、バランス・オブ・パワー外交、即ち最も強力な覇権国をカウンター・バランス(牽制)して勢力均衡を図ろうという「リアリズム外交」の信奉者である。また彼は古典的自由主義者で、保守派の言論人であるが、日本の親米保守(拝米保守)と国粋保守に対しては批判的である。哲学的には古典主義者であり、ギリシア哲学、キリスト教、儒教、仏教の古典思想を高く評価する。 

 

伊藤貫氏は、アメリカの冷戦後の外交・経済・軍事における一極覇権戦略が完全に失敗したことを手厳しく批判し、イスラエルのガザ侵攻もウクライナ戦争も、専らアメリカの無謀な覇権主義の結果であると断じている。また、日本はアメリカに依存せず、核武装を含む自主防衛をして、アメリカから独立するべきだと主張する。彼は、自らを三流人間であると自認しながらも、その三流人間でも、誰が一流で、誰が超一流の人物(学者)であるかを見分ける能力(直感力)だけはあるとして、政治家では、ビスマルク、タレーラン、ドゴールを信奉し、国際政治学者では、バーク、トクビィル、ケナン、ウォルツ、ハンティントン、ミアシャイマーなどを高く評価している(伊藤貫著『自滅するアメリカ帝国』文藝春秋P68)。なるほど、この伊藤氏の自己認識と直感力は共感でき、筆者とは似た者同士であると親近感を覚えたものである。 

 

そして及川幸久氏も、理由はともかく、子供や女性など4万人もの市民を殺戮したイスラエルを反グローバルの立場、あるいは人道的立場から非難されている。しかし筆者は、世界史的立場、聖書的立場からイスラエルを擁護し、以下の通り問題提起した。 

 

確かにイスラエルのガザ空爆によって、無辜のガザ市民が巻き添えにあって3万~4万人も犠牲になっている事実は、人道的見地から許されるものではなく、即刻停戦すべきである。また過去、パレスチナ人がイスラエルの建国によって、結果的にパレスチナ地域から追い出されて難民となった経緯を忘れてはならない(ただ、この経緯については、イスラエル側の言い分もある)。しかし、イスラエルが人類歴史において、かけがえのない貢献をしてきた事実は、更に忘れてはならないことなのである。即ち、イスラエルは次の通り多大な人類史的貢献をしてきた。 

 

第一の貢献は、世界に「一神教」をもたらしたことである。かってアブラハムが神に召された時は(創世記12.1)、メソポタミアをはじめ世界の99%が多神教の偶像崇拝に沈んでいた。しかし、アブラハムとその一族だけが一神教、即ち天地を創造された神は一人であることを主張した。イスラエルは一神教の元祖なのである。そして今やユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教は世界の60%を占めるまでになった。 

 

第二の貢献は、イエス・キリストを生み出したことである。イエス様は紛れもなくユダヤ人であり、イエス様が誕生しなければキリスト教は存在しなかったし、世界の主流思想を形成したキリスト教文明もなかったのである。イスラエルはイエス様を不信し十字架に架けたが、イエスというキリストを世界に生み出したことは事実である。 

 

そして第三の貢献は科学の発展に寄与したことである。イスラエルは世界人口の0.2%でしかないにも係わらず(1500万人)、ノーベル賞受賞者の20%がユダヤ人である。こうしてイスラエルが世界文明に寄与した点において他の追随を許さない。 

 

では翻って、アラブ人・パレスチナ人は世界に何を貢献したと言うのであろうか。せいぜい石油を発掘したくらいだろうか。サラの子イサクの子孫(イスラエル)は、ハガルの子イシマエルの子孫(アラブ人)に比べ、圧倒的な人類史的貢献を果たしており、これが歴史的現実である。こうして人類史的観点に立って考えれば、イスラエル・ハマス紛争の本質が見えるはずである。 

 

またユダヤ人はナチスのホロコーストによって600万人という未曾有の犠牲者を出した。西欧諸国には、多大な犠牲を余儀なくされたイスラエルへの同情や自責の念(負い目)があり、またイスラエルは十分罪を償ったのである。国を失って四散したイスラエルに、せめて悲願の建国を支援することは道義に叶うものではなかったか。まさに1948年のイスラエル建国は、約束の地、聖書の預言成就でもあるというのである。 

 

事実、今回のイスラエル・ハマス紛争の直接の発端は、そもそもハマスのテロにあるのであり、またハマスがガザ市民を人間の盾にしていることも事実である。イスラエルには、「全世界から同情されながら滅亡するよりも、全世界を敵に回してでも生き残る」という言葉があるが、幾多の迫害と過酷な試練に晒され、国を持たない民族の辛酸をなめ尽くしてきたイスラエルの内在論理を端的に表した言葉である。 

 

こうして筆者は、マスコミや多くの識者のイスラエル非難にも係わらず、このような人類史的立場、聖書的立場からイスラエルを擁護した。良くも悪くもイスラエルという国は世界史を解く鍵、鋭敏な急所なのである。 




【イスラエルを巡る神学論争】 

 

ここに「ディスペンセーション神学」(ディスペンセーショナリズム)と「契約神学」という2つの聖書に関する歴史解釈論がある。ディスペンセーション神学と契約神学は、18世紀~19世紀、福音的な神学者(聖書を神の言葉と信じる神学者)が、聖書の歴史哲学を体系的に説明するため2つの神学体系を構築した。この2つの神学はあらゆる側面で対極的立場にあり、特にイスラエルの位置付けにおいて、決定的な違いがある。 

 

<ディスペンセーショナリズムと契約神学>

 

ディスペンセーショナリズムは、聖書全体を体系的、組織的に解釈するための神学的枠組みであり、これに対抗する枠組みが契約神学である。そしてそれぞれの体系が独自の歴史哲学を持っている。歴史哲学とは、歴史的出来事を読み解く法則とは何かを探求し、歴史の流れを体系的に説明しようとする学問であり、聖書には、神が啓示された歴史哲学が含まれていると考える(中川健一著『ディスペンセーショナリズム』P9)。 

 

中川健一著『ディスペンセーショナリズム』によれば、ディスペンセーションとは、区分又は経綸という意味であり、神の摂理において明確に区分し得る経綸が存在するという。即ち、神の計画が進展していく過程(漸進的啓示)において出現する、明確に区分可能な神の経綸で、7つの区分が存在するという。7つの区分とは、①無垢の時代(創世記1.28~3.6)、②良心の時代(創世記3.9~8.14)、③人間による統治の時代(創世記8.15~11.32)、④約束の時代(創世記12.1~出エジプト18.27)、⑤律法の時代(出エジプト19.1~使徒行伝1.26)、⑥恵みの時代(使徒行伝2.1~黙示録19.21)、⑦御国の時代(黙示録20.1~20)、である。しかし、ある意味ですべてのクリスチャンは、最低、旧約時代と新約時代を認めるディスペンセーショナリストであるとも言える。  (『ディスペンセーショナリズム』P24~25)。 

 

ディスペンセーショナリズムの特徴として、①聖書の字義通りの解釈を行う(たとえば、黙示録20章に出て来る「千年間」という言葉を、文字通りの「千年間」と解釈する)、②イスラエルと教会の一貫した区別(ヨハネの黙示録・福音書の終末に関する記述は、教会に関する終末論ではなく、全てイスラエルに対する神の計画としての終末論と考え、置換神学の立場を取らない)、③聖書が書かれた目的は「神の栄光」であると見る、④千年期前再臨説を採用する(先ず再臨があり、その後再臨による千年王国が始まる)、が挙げられている。

 

南北戦争以降のアメリカでは、ディスペンセーションの考え方が急速に広まっていき、ブレザレンの伝道者ヘンリ・モアハウス、ブラックストン、C・I・スコフィールドなどが推進した。特に、スコフィールドの『スコフィールド引照・注解付き聖書』がこの神学の普及に大きな役割を果たした。ムーディー聖書学院、ダラス神学校、グレイス神学校などがこの神学に基づいて教育を行い、ディスペンセーション神学を支持する教職者を多数輩出した(Wikipedia)。 

 

一方、契約神学(Covenant Theology) とは、聖書の記述全体を神学概念のひとつである「契約」 (covenant) の概念によって把握し、説明しようとするキリスト教神学の立場である。2つ又は3つの契約を基に、聖書の歴史哲学を解き明かそうとした神学体系であり、聖書と歴史全体が神と人間の3つの契約によって説明できるとした。即ち「贖いの契約」(永遠の昔に父なる神と子なる神の間で結ばれた契約、エペソ1.3~13)、「行いの契約」(堕落前にアダムと結んだ契約、創世記2.17)、「恵みの契約」(堕落後に結ばれた。信仰と恵みによる契約、ヘブル9.15)がそれである。 

 

中川牧師は、この3つの契約を「神学的契約」と呼び、それに対して聖書を字義通りに解釈して認められる「聖書的契約」が8つあるとした。それが「エデン契約」(創世記1.28~30)、「アダム契約」(創世記3.14~19)、「ノア契約」(創世記9.1~7)、「アブラハム契約」(創世記12.1~3)、「シナイ契約」(出エジプト20.1~申命記28.68)、「土地の契約」(申命記29.1~30.20)、「ダビデ契約」(2サムエル7.11~16)、「新しい契約」(エレミヤ31.31~34)である。その内、エデン契約とシナイ契約は権利・義務を定めた条件契約で、その他は義務のない無条件契約であるという。(『ディスペンセーショナリズム』P75~76)

 

また契約神学の特徴として、①聖書の比喩的解釈を認める( 黙示録20章に出て来る「千年間」という言葉を、文字通りの「千年間」とは解釈しない)、②イスラエルは新約時代において、教会に取って代わられたとする置換神学の立場をとる、③聖書が書かれた目的は「人類の救い」であるとする、④千年期後再臨説又は無千年説を採用する(千年王国後、再臨がある)、が挙げられる。なお契約神学は、カルビン主義で採用され、カルビン派の長老派、改革派、そしてルーテル派が採用している。筆者としては、やや契約神学に近い見解を有している。 

 

ちなみに原理の歴史哲学は、人類歴史を神による復帰歴史(救済歴史)と見る「蕩減復帰歴史観」であり、聖書の解明を通じて歴史に一定のパターンと法則を見出だし、数理性(摂理的同時性)を発見した。そして蕩減復帰の時代区分を、①蕩減復帰基台摂理時代(アダムからアブラハムまでの2000年)、②蕩減復帰摂理時代(アブラハムからイエスまでの2000年)、③蕩減復帰摂理延長時代(イエスから再臨期までの2000年)、④蕩減復帰摂理完成時代(再臨期以後の復帰摂理完成時代)としている。 

 

なお置換神学( replacement theology)とは、新約聖書解釈の一つで、選民としてのユダヤ人の使命が終わり(旧約)、新しいイスラエルである教会に取って代わられた(新約)とする説である(ガラテヤ3.6~9、ローマ2.28~29)。即ち、神がイスラエルと結んだ契約はキリスト教会に受け継がれたとする神学で、キリスト教をイスラエルに代わる第二イスラエルと位置付けた。 

 

但し、置換神学は「反ユダヤ主義」の温床になったという指摘もある。つまり、選民思想には注意が必要である。イスラエルが神に選ばれたということは、選ばれなかった国があるということであり、過度な選民意識は他からの嫉妬と怨嗟の対象となる。反ユダヤ主義にはイエスを十字架につけたことによる呪いという側面と、強い選民意識への拒否感の双方がある。UCにおける「父の国」(アダム国家)、「母の国」(エバ国家)という呼称も注意が必要であり、抑制的に使うべきである。 

 

<特異な終末論>

 

しかしディスペンセーショナリズムは、旧約聖書においてイスラエルに約束されたことは、今も有効とし、まだ成就していない約束は、将来、イスラエルの上に成就すると主張する。このように、イスラエルと教会を区別するかどうかで終末論が決まるのである。 

 

例えばカナンの地を与えると約束された「土地の約束」(創世記13.14~15)は、キリストが統治する地上のメシア的王国(御国の時代における千年王国)において成就するとする(『ディスペンセーショナリズム』P71)。御国の時代とは、キリストの義なる支配が実現することで(イザヤ11.1~5、ゼカリア14.9~10)、再臨のメシアが降臨され(使徒1:10~12)、千年王国を確立し、王としてエルサレムから世界を統治される時代をいう。即ち、王なるキリストによる神政政治が、エルサレムから始まり、全世界の上に神の支配が成就するとした(同書P71)。パレスチナの相続、神殿の復興、ダビデ王朝における異邦人世界の統治など、イスラエルに関する旧約聖書の預言が文字通り成就すると考えるのである。 

 

メシアが天から降り立たれる場所は、かつてイエスが昇天されたオリーブ山であると考える(使徒1:10~12)。そこはかつて神の栄光が神殿から離れ去った場所だが、やがてそこに神の栄光が戻って来ることが預言されており(エゼキエル43.2)、メシアが天から降り立たれる場所と神の栄光が戻ってくる場所が同じなのである。しかも戻って来る神殿は新しく建て直される「第三神殿」であり、現にイスラエルでは、やがてエルサレムの神殿の丘に(今は、イスラム教モスクの岩のドームが建っている)、第三神殿を建てるための全ての準備ができているという。そして前述の中川健一牧師は、以上のようなイスラエル観、終末観を支持されている。 

 

しかしこのような終末観・イスラエル観は、イスラエルの使命はキリスト教(教会)に引き継がれたとする契約神学をはじめ、主流派キリスト教では否定されており、いかにも時代錯誤の偏った教説というしかない。前述したように、イスラエルが人類に多大な貢献をした事実は不滅であり、イスラエル建国を認め、これを支持するものの、イスラエルはイギリスやフランスやスペインやアフリカのように、(選民国家ではなく)普通の国になったのである。原理では、イスラエルを第一イスラエル、キリスト教を第二イスラエル、そして再臨主を仰ぎ見る統一の群れを第三イスラエルと位置付けており、文字通りイスラエルは普通の国になったのである。 

 

聖書には、「自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ」(マタイ3.9)とあり、また「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない」(ローマ2.28~29)とある通りである。 

 

【聖書解釈の混乱とその統一】

 

神は聖書を通してご自身を人類に啓示され、神の自己啓示の書である聖書を、体系的かつ論理的に把握しようとする試みが神学であるが、その聖書の解釈の違いから多くの教派や神学上の混乱を生んだ。前記した終末観やイスラエルの聖書的位置付けについての解釈の違いは、その典型例である。 

 

聖書は神の創造理想、堕落、復帰の道が隠された秘密の啓示書であるが、その重要な部分が比喩や象徴や暗示で書かれており、この奥義の解釈を巡って果てしない神学論争が続き、幾多のキリスト教教派が生まれてきた。まさにキリスト教は聖書解釈の葛藤の歴史でもあった。聖書の奥義については、「つれづれ日誌(令和5年2月1日)-文鮮明先生に見る聖書の研究と聖書の奥義の解明」において論じているが、文鮮明先生は次の通り言われた。 

 

「数多の哲学者や宗教家はあれど、誰一人として秘められた神の心情と聖書の真義(奥義)について知る者はなく、霊的には暗闇に覆われているかのようでした。盲目にして無知なる人間の行為の記録ともいうべき人類歴史の背後に、一つの公式とパターンのあることを悟り、歴史の秘密の全てを解明してその法則と原理を見出したのです」(『御旨と世界』創立以前の内的教会史P593~596) 

 

現下のイスラエルとパレスチナの紛争、ひいては中東全体の対立にしても、表面的な近現代の国際政治における利害関係の対立構造だけを見ても解決できない。紛争の背後にある、 アブラハムの子である「イサクとイシマエルの葛藤」にまで遡ることが是非とも必要である(創世記21.8~21)。そして正しい聖書の解釈が必要である。この点、原理講論は、聖書の奥義を解明した聖書の新しい解釈論であり、聖書の統一的解釈が示されている。文先生は「この終わりのときに、天地の秘密、神様が隠していた秘密、サタンが隠していた秘密、歴史的秘密、哲学者達の秘密の全てを解決しました」(天聖経第八篇第四章P924) と証言されている。 

 

以上、中川健一著『ディスペンセーショナリズム』に示されたディスペンセーショナリズムと契約神学の異同について論じ、またそれぞれの体系が独自に有する歴史哲学と聖書の奥義について論考した。そして宗教政治研究会で論議された内容を叩き台に「イスラエル論」を検証した。現下のイスラエル・ハマス紛争の解決に何らかの参考になれば幸いである。(了)    牧師・宣教師  吉田宏

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