◯つれづれ日誌(令和4年9月7日) 文鮮明先生の日本観と韓国観及び世界主義-UC叩きの誤謬「UC教義に自虐史観はない」
私たちは世界主義が必要です。神様も世界主義であるに違いありません。統一教会は、共産党よりもキリスト教よりも世界主義であることを理解させなければなりません(文鮮明教祖の言葉-1983年6月5日ベルベディア)
【はじめに】
近時のマスコミによる異常なUC叩きを概観しながら、筆者は原理講論の堕落論にある「善神の業と悪神の業」(P120)という一節を想起いたしました。このもろ手をあげてのUC叩きは、社会的、政治的事象というより、一種の「霊的現象」である、一体、これは善神の業なのか、はたまた悪神の業なのか、という問題意識です。
この前代未聞の安倍暗殺事件と、それを不当にUCと結びつける左派系マスコミによる異常なUC叩きは、UCが一貫して反共思想を掲げてきたことに大きな原因があり、一見UCをどこまでも貶め葬り去ろうとする「悪霊の仕業」に見えます。しかし一方では、「一体UCとは何か、その教義とは何か、そもそも文鮮明教祖とは何者なのか、そして信仰の自由とは何か」といった本質的な問題が議論の俎上に上がり、またUCを擁護する言論も出てきて、結果的により根本的な問題を日本社会に突きつけるという趨勢にあります。 前回も述べましたが、ここには何か全能の神の「見えざるご計画」があると思わざるを得ません。
【UC叩きの主要な原因】
今、マスコミや国民、そして政治家が、大きく問題視しているのが、韓国との関係において、UCは国益に反する「反日団体」ではないかという点であります。またマスコミは、意図的に、UC=カルト=反日というレッテルを貼るという流れの中にあるようです。
具体的には、霊感商法や高額献金で日本人から不当に吸い上げられた金銭が韓国に流れていること、即ち金銭を韓国に貢ぐことが、教義的に、また自虐史観によって、組み込まれているという誤った認識報道の垂れ流しであります。そしてもう一点が、日韓合同祝福結婚式によって、やはり自虐史観に基づき結婚させられ、日本人女性が犠牲になっているという捏造報道であります。
そしてこれらのことが、 文鮮明先生、韓鶴子総裁自身の思想として喧伝され、それが教義によって根拠付けられているというのです。この点、前回も述べましたが、文藝春秋九月号「安倍元首相暗殺と統一教会」にはこの問題が強調して取り上げられました。
韓鶴子総裁が岡山の大会に寄せた原稿の一節「日本は過去に誤ったことを認めなければならない。人間的に考えれば赦すことができない民族です」が切り取られて一人歩きし、また「日本はエバ国家で、姦淫の原罪により、日本は韓国に尽くさなければならないという教えが根幹にある」とし、「原理講論韓国版には、植民地統治時代にはいかに日本人が韓国人を虐待したかが書いてある」と指摘しました。
そして最近、自民党の岸田総裁が、「今後、自民党は統一教会との関係を断つ」(これは正に、保守政治の自殺行為で信仰の自由侵害の疑いがあるが)との絶縁宣言を出したことで、一層拍車がかかりました。以下は自民党国会議員の元秘書からのメールです。
「日本の政治家の一部では、『韓国本部が日本の教会の資金を搾取している』との認識に傾き、改めて『内心、冷めてしまった』との空気が漂っている模様で、日本の家庭連合の事実上の責任者は日本人ではなく、韓国人であるのは、最早、日本国の宗教法人とはいえないとの声が出ているようです」
以上のようなことから、UCは日本を食い物にする「反日団体」であるとのレッテルが貼られようとしているというのです。しかしこれらの報道は、偏った予見に基づき、内を見ないで外形だけで判断する悪質な妄言であり、事実においても、教義に照らしてもフェイクニュースであることを、以下、検証したいと思います。
【文鮮明教祖の日本観と韓国観及び世界主義】
先般もTBS系テレビ「報道1930」で、文鮮明先生(以下、「創始者」と呼ぶ)が語ったという「日本は過去韓国に罪を犯したので、その罪を償わなければならない」といった趣旨の一節だけを切り取って、UCが自虐史観に染まっていることの証拠にしました。
このように、前後全体の脈絡や真意を無視して、都合のよい断片だけを切り取って報道するのは偏向マスコミの常套手段ですが、確かにこれだけを読めば、UCが反日団体に見えるかもしれません。そこで先ず、そもそも創始者がマスコミがいうように「韓国中心主義に立った反日的な民族主義者で、日本人に自虐史観を教えている」のかどうかという問題を考えて見たいと思います。
最初に結論から申せば、創始者は民族主義者などではなく、世界主義者である、もっと言えば「神中心主義者」であり、またこの方以上に真剣に「日本の救い」を考えた人はいないということです。かって筆者は、自叙伝『平和を愛する世界人として』を読んだことがきっかけとなって、「創始者は反日的民族主義者なのか」との問を発して、この問題を考察したことがありましたが、この点、次の言葉が全てを語っているでしょう。
「統一教会の目的は、超民族的、超国家的、超宗教的理念に基づき、五色人種が永生を謳歌する人類一家族世界の歴史的聖業を成就することです」(『平和経』P1370)
「私たちは世界主義が必要です。神様も世界主義であるに違いありません。統一教会は、共産党よりもキリスト教よりも世界主義であることを理解させなければなりません」(1983年6月5日ベルベディア)
このように、創始者は民族主義では世界は救われない、UCは世界主義でいかなければならないと色々な場面で繰り返し語っておられるというのです。しかし、一方では、 自叙伝『平和を愛する世界人として』の中には、次のように韓国中心主義とも誤解されかねない発言があります。
「人類文明が朝鮮半島で結実する準備をしています。西洋文明と東洋文明は、近い将来に朝鮮半島で一つになります」(自叙伝『平和を愛する世界人として』創芸社P282、P286)
「韓国の地は今後、山の峰と同じような役割を果たすでしょう。そして、世界中の人が韓国人に生まれることができなかったことを悔しく思う時が来るでしょう」(自叙伝P129)
また、下記の通り、反日的だと思える発言もあります。
「日本人は一日も早く荷物をまとめて日本に帰りなさい。この地は、わが国の者たちが子々孫々にわたって生きていかなければならない先祖から受け継いだ遺産です」(自叙伝P56)
「祖国が日本の植民地統治下で呻吟していたのです。大東亜戦争が熾烈を極めるにつれて、弾圧は日に日に激しさを増していきました」(自叙伝)
上記は一部ですが、このように一見民族主義が色濃く出ていると思われる記述をどう考えればいいのでしょうか。創始者のこのような言葉の背後にどのような事情や背景があるのか、有識者信徒の見解も踏まえ下記の通り分析し、以下5項目にまとめました。
a.受難の民、可哀想な民族との認識
「真の御父母様の生涯路程1」の記述によれば、創始者は10代の若き日に、朝鮮半島の隅々まで見て回った言われ、その結論は、歴史的にも現実的にも、「可哀想な民族である」ということでした。そのような若き創始者の目には、当時の日本による統治について、「韓国民族を虐げる日本」と写ったことは想像にかたくありません。
創始者は、16歳でイエス様から召命を受ける前、「わが民族が受ける苦痛の意味は何なのか」という真剣な問いかけをされ、「悲運の運命、天の前で退歩したその悲運の歴史は、私たち先祖の血筋を通して今日私にまでつながってきて、終着点を立てることを願っているに違いないと考えました」(真の御父母様の生涯路程1)と語られています。朝鮮半島には、日韓併合のみならず、古代朝鮮の古より、中国や北方民族に常に侵され忍従を強いられてきた恨の歴史があります。韓国人は、この受難の歴史をイスラエルになぞらえて「東洋のイスラエル」という言い方をしました。
イスラエル民族は、神から選ばれた「聖なる民」、「宝の民」として立てられました(申命記7.6)。この選びは、神がイスラエルを通して世界を救われようとされたものですが、それはまた他国の嫉妬にさらされ、迫害を受ける苦難の民を意味していました。しかし、歴史を背負って苦難を負う代わりに、神の言葉がユダヤ人にゆだねられたというのです(ロマ書3.2)。朝鮮民族は、日本からの独立後も、唯一の分断国家としての悲哀を余儀なくされ、イスラエルの運命を自らの運命にダブらせました。
創始者は、「韓民族がこれまでに経験してきた悲惨な歴史には、深い意味があります。韓国が世界平和の前進基地になる運命なので、そのように多くの苦難を経験してきたのです」(自叙伝P287)と語られていますように、ここに創始者の民族観、愛国心の源流があります。この可哀想な民族への情が、自叙伝に記載されたような愛国的な表現になったと思われます。
なお、自叙伝については、「あとがき」の中で、小山田秀生氏が「原書は韓国人読者を主な対象として編集されたものであるため、韓国中心に記された箇所が散見されますが、文先生は日本の将来を誰よりも案じ、一貫して世界人類の救済のために歩んでこられたことをご理解下さい」と記しておられるるように、読者の主な対象を韓国民に置かれたために、韓国民に配慮し民族性が色濃く出たという指摘があります。しかし、「この本(自叙伝)が終われば、次の第二巻には日本民族を愛さなければならない道があるというのです」と語られています。残念ながら、第二巻が出る前に亡くなられましたが、後述するように、創始者は日本の精神的素質や文明の高さを高く評価されています。
b.正しい民族愛は非難されるものではない
第二に、正しい民族愛は非難されるものではないということです。自らの民族・国家を愛することは自然の情であり、また義務であります。内村鑑三も新渡戸稲造も良きキリスト者であると同時に、また良き愛国者でありました。内村の墓碑銘「私は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、全ては神のために」には内村の国家観が端的に示されています。
創始者も同様です。創始者は、「私は家庭のために存在し、家庭は社会のために存在し、社会は国家のために、国家は世界のために、世界は神のために、そして神は全人類のために存在する」(1973年10月20日ワシントンリスナー講堂 「人間に対する神の希望」より)と語られました。
むしろ真の世界主義に立つためには、民族愛、国家愛は通過しなければならない関門であるともいえるのです。韓国人文鮮明が韓国民族を愛したからと言って非難される理由はありません。「国を愛することのできない人々が、天を愛することができますか。国を愛することができない人は、天を愛することはできません」(真の御父母様の生涯路程1)と語られているとおりです。
c.神の一点突破の復帰戦略
「神はその復帰計画において、先ず一つの国を探すこと、神の前進基地を確保することが重要でした。そしてそれには小さな国、弱い国がいいというのです。復帰が容易だからです」(御旨と世界より)
まさに神の一点突破の復帰戦略ですが、創始者は、その条件として、単一民族で長い歴史を持つこと、侵略性の無い善の民族であること、敬天思想があり唯一神の伝統があること、などを挙げられ、その条件に合う国はイスラエルか韓国しかないことを強調されました(御旨と世界)。
しかし皮肉にも、最も創始者を迫害したのは韓国のキリスト教と韓国国家になってしまいました。創始者が最も戦かわれたのは韓国のキリスト教と国家だと言えなくもありません。そしてその闘いを克服し、民族と国家を愛したという基準を立てた上で、国境を越えて世界を象徴するアメリカ宣教へ旅立たれたれました。
1972年1月1日、祈祷中に神は創始者に、「アメリカに渡り、希望と団結を叫びなさい」と厳粛な啓示を与えられたというのです。創始者は、1946年5月27日、神から「北に行け」との命を受け、着の身着のまま38度線を超えていかれましたが、常に神の啓示に従って人生を歩まれました。以後約40年に渡りアメリカで宣教され、宣教本部もアメリカに移り、40年間に渡って世界本部として機能しました。文字通り名実共に「世界人文鮮明の誕生」です。
d.指導者特有の誇張法がある
新旧約聖書もそうなのですが、神の恵みと力をより感動的により鮮明に言い表すため、大袈裟に誇張された言葉で表現される場合がしばしばありあります。ユダヤ的な表現方法の特徴には、逆説法、比較法、そして誇張法があると言われますが、まさに「ユダヤ誇張法」がそれであります。創始者が語られる韓国観には、かくあるべき国、こうあって欲しい国といった願望が加味されている場合があり、それが民族を過度に美化した表現に繋がることも否定できません。
神の言葉は、その字句だけに囚われてはならず、その趣旨や本質が何であるかを文脈的、総合的に見ることが肝要であります。その意味で、現下のマスコミのように一節だけを切り離して取り上げたり、み言葉の字句自体を無謬とする考え方は否定されるべきであり、教条的な神学者と同じ轍を踏んではならないというのです。原理講論にも「聖書の文字は真理を表現する一つの方法であって、真理それ自体ではない」(P169)とある通りです。
その意味で、マスコミが指摘する原理講論再臨論などに出てくる韓国中心表現、その延長としての反日表現については、誇張表現があり、教義の根幹に関わる問題ではありません。
e.創始者の日本観ー反日問題について
最後に「創始者に反日思想はあるのか、創始者は如何なる日本観を持っておられるのか」という今回の中心テーマを取り上げることに致します。
神学に詳しいある信徒は「戦前の日本と戦後の日本の区別が必要である」と指摘しました。自叙伝、原理講論再臨論などに見られる反日表現は、もっぱら戦前の日帝時代の日本についての記述であり、戦後の日本への創始者の評価はこれとは全く異なるということです。この指摘は注目に値します。
勿論、戦前と戦後をどのように評価するかは、識者の間でも色々と見解が分かれるかれるところであり、中国や韓国からすれば、太平洋戦争は日本の「侵略戦争」であり、従って日本は戦犯国家であるということになり、逆に日本の保守派からすれば、大東亜戦争は欧米の植民地搾取からアジアを開放した「解放戦争」という認識になります。このような認識の違いはありますが、少なくとも太平洋戦争(大東亜戦争)直前の日本は、概ね軍閥による独裁、乃至は軍部による独走の様相を呈していたということは否定できません。
その意味で、確かに原理講論は、キリスト教と民主主義を標榜する連合軍国家を神側と評価し、全体主義のドイツや日本を復帰摂理の方向を妨げるサタン側と評価しています。また韓国を迫害する国として敵愾心を表現した場面が見受けられ、これらは日本の愛国者からすれば、公平さを欠く反日思想だと感じるのは無理からぬところです。
しかし、戦後の民主主義国家として生まれ変わった日本に対しては、創始者の言葉に反日的表現は一切ありません。むしろ戦後の日本に対しては神側に立つと評価され、現に創始者は日本人を忠孝のよき伝統を持つ民族として称賛し、実際日本は摂理上、母性国家イギリスに代わる世界の母国として祝福され大きく用いられました。日本の摂理的、歴史的使命について次のように語られています。
「このような文明史の推移を、神様の摂理として理解すれば、今日、天運の中心的立場に置かれている島嶼国家は、正に日本であると考えざるを得ません。日本は神様の摂理を通して、人類歴史の舞台に立ったのです」(平和経P1365)
また、明治維新以後から日露戦争までの、欧米列強に追い付け追い越せと切磋琢磨したこの時代の日本を、「アジアで唯一近代国家に成功した国」として高く評価されました。更に創始者がその本質において親日的である根拠を付け加えるなら、創始者は日本語が流暢であられ日本語を使われること、早稲田の専門高等学校に留学されたこと(3年半)、その間日本の労働者・農民・貧しい人の友として共にごされ、卒業後は鹿島建設に就職されたことを挙げることができるでしょう。このように創始者は、誰よりも日本を知り尽くした知日派、親日派であります。
日本・早稲田高等専門学校、留学時代 (早稲田大学・高田早苗像の前で、後列中央)
そして終戦後は、蒋介石に手紙を書き、日本を4島に分断してはならないこと、日本から戦争賠償金をとるべきではないことを訴えられ、蒋介石から「恨みに報ゆるに徳を以てす」(老子六三章)という言葉を引き出されたというのです(三時代大転換四位基台の入籍統一祝福式、2004年9月26日) 。実際、創始者は「日本留学は怨讐の国である日本民族を滅びるようにするためではありませんでした。日本に行っても、日本人を誰よりも愛しました」と語られました。
また創始者はその信仰世界において、「敵を愛し迫害するもののために祈れ」(マタイ5.44、ルカ書6.27)とのイエスの言葉を称賛され、自らも「恩讐を愛せ」という言葉を何度も使われています。ニクソンの政治スキャンダルに際しては「許せ、愛せ、団結せよ」と表明されました。これらは、キリスト教精神の真髄であり、創始者の信仰的核心であります。
このように考えると、冒頭申した通り、創始者の本質は、反日どころか、「誰よりも日本を愛された方」であり、 ましてや、かって敵国国家であった非キリスト教国家日本を、神の反対を押し切っても、韓国、アメリカと並ぶ摂理国家に推挙され引き上げられた恩人であり、正にこれが創始者の日本観です。
そして、「わたしはあなたを異邦人の光とし、地の果てにまで救いをもたらす者とする」(使徒13.47)とある通り、キリスト教が、異邦人の使徒パウロによって、ユダヤ民族宗教を乗り越えて、世界宗教へと脱皮したように、イエスの福音は地上にイスラエル王国をつくることではなく、神の国を作ることにありました。
そもそも神の言葉は、絶対的であると同時に普遍的、全人類的なものであり、創始者の理想が、韓国王国を作ることではなく、神の創造目的である地球規模の地上天国を作ることにあることは明らかです。つまり、創始者は正真正銘の世界主義者、もっと正確に言えば徹底した「神中心主義者」であるという結論にならざるを得ません。
従って、マスコミが言うように、創始者が自虐史観を日本信者に植え付けている民族主義者などという報道は、見当違いも甚だしく、メシアの本質を知らない妄言であるばかりか、滑稽でさえあります。
【献金の使途について】
最後に、献金の使途問題について検証いたします。
前記した通り、創始者に反日思想などなく、従って韓国への自虐史観に基づく金銭の拠出や強要などはあり得ないことは明らであり、そもそも献金は自由意思無くして成り立ちません。献金の使途について、韓国への送金の他にも、勝共連合などの関連組織の活動に使われているとか、アメリカの関連事業に使われているとか、色々取沙汰されていますが、しかし、日本の教会が世界宣教のために物心両面に渡って支援することはあり得ることですし、またすべきであります。
カトリック本部は、ザビエル以来、宣教地日本のために莫大な資金を投じてきましたし、その支援は、今でも日本のカトリック教会へ行われています。また創価学会も世界各国の学会に金銭を拠出しています。何故なら、ほとんどの海外の学会は赤字であり、日本からの支援なくして成り立たないからです。実際、創始者が日本の役割として、日本UCに期待されたのは、世界に宣教師を出すこと、信仰の模範を示して世界の信者を教育すること、そして世界の教会を経済面で一定程度サポートすること、の三つであり、韓国に償いのために金銭を拠出することなどとは論外であり、そのように指示されたことなど一切ありません。
幸い、世界の教会に比べて基盤がある日本のUCが、世界宣教、とりわけ世界を代表するアメリカ宣教のために協力することはあり得べきことであり、世界に協力したということで、日本の信頼と国益にとってもプラスになることは明らかです。それが、アメリカや韓国の世界宣教本部を通じてであれ、日本から各国への直接の支援であれ、世界宣教に日本が一定の役割を果たすことは日本の誇りでもあります。
コリント人への第一の手紙16章には次のようにあり、バウロはエルサレム教会への献金のために大変尽力しました。「(エルサレムの)聖徒たちへの献金については、わたしはガラテヤの諸教会に命じておいたが、あなたがたもそのとおりにしなさい」(1コリント16.1~2) とある通りです。またパウロは、「聖徒たちに仕えるために、わたしはエルサレムに行こうとしている。なぜなら、マケドニヤとアカヤとの人々は、エルサレムにおる聖徒の中の貧しい人々を援助することに賛成したからである」(ロマ書15.25~26)としてエルサレム教会を金銭的に援助しました。
そしてパウロは、エルサレムから霊の賜物(み言)にあずかっているのだから、肉の賜物(金銭)を以て返すのは信仰者の道理であると言っています。
「たしかに、彼らは(献金に)賛成した。同時に、彼らはかの人々に負債がある。というのは、もし異邦人が彼らの霊の物にあずかったとすれば、肉の物をもって彼らに仕えるのは、当然だからである」(ロマ書15.27)
今、マスコミは、霊感商法によって日本人から集められた金銭が、自虐史観(償い史観)によって韓国に貢がれていると喧伝していますが、以上の論証からこれが完全にフェイクニュースであり、UCと安倍元総理を貶めようとする左傾マスコミとその同調者の陰謀であることが明確になりました。
しかもUCが扱っている金額など、過去数十年を合算しても、せいぜい数百億円~数千億円程度と思われ、日本の国家予算は100兆円を越え、1990年の湾岸戦争では、多国籍軍に135億ドル(約1兆7500億円)の支援を行い、ODAの途上国支援金は毎年160億ドル(2兆4000億円)であることからしても、そう目くじらを立てるほどのことではありません。
筆者は、かって日本のキリスト教史を研究した際、日本はザビエル以来、欧米からのキリスト教宣教師の犠牲と献身、そしてそれを支える母教会の支援に負っていることを知って、愕然としました。それに比して、「一体日本は何を世界のためにしたというのだ」との激しい羞恥心に襲われたことを告白いたします。
今、日本中からバッシングを受けているUCこそ、日本の歴史上はじめて、世界に日本発キリスト教宣教師を大規模に派遣した唯一の教会であるというのです。そしてこのことは、やがて時を経て、愛国的な犠牲と献身であったことを万人が知ることになるでしょう。
世界宣教活動
次回は更に、文藝春秋が掲載した「日本はエバ国家で、姦淫の原罪により、日本は(アダム国家である)韓国に尽くさなければならないという反日思想の教えが根幹にある」との指摘がいかに独断的で浅薄な言説であるかを検証したいと思います。いわゆる「選民論」であります。(了)