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日本における宗教弾圧とその教訓 大本弾圧とホーリネス弾圧

更新日:5 日前

◯徒然日誌(令和7年4月9日)  日本における宗教弾圧とその教訓-大本弾圧とホーリネス弾圧

 

神よ、沈黙しないで下さい。黙していないでください。御覧ください、敵が騒ぎ立っています。彼らは言います。「あの民を国々の間から断とう。イスラエルの名が再び思い起こされることのないように」と。(詩篇83.1~5)

 

プロローグ 

 

今、戦後の日本で、信じがたい未曾有の宗教弾圧が行われている。今や家庭連合(以下、「UC」と呼ぶ)は、東京地裁から無理筋の解散決定を審判され、民主主義の優等生と世界から目されたこの日本で、白昼堂々と善良な一宗教法人が解散の憂き目にあっているのである。まさに令和の宗教弾圧で、世界の民主主義国家から厳しい非難に晒されている。 

 

日本の宗教弾圧の歴史には、豊臣秀吉と江戸幕府によるキリシタン禁教の弾圧の他、戦前の内務省・国家神道による大本教、創価教育学会、ひとのみち教団(PL教団の全身)、天理本道、ホーリネス系教団、灯台社(ものみの塔)などの弾圧がある。また 1891年1月 、内村鑑三が第一高等中学校の始業式で教育勅語に最拝礼しなかったとして非難され、学校を追われた「不敬事件」がある。戦後の解散事例としては、オウム真理教と明覚寺があるが、いずれも刑事事件であり、民法によって解散させられた教団は皆無である。 

 

これら日本の宗教弾圧の歴史の中でも、宗教法人を解散させられた「大本弾圧事件」と「ホーリネス弾圧事件」は典型的なケースで、弾圧下のUCにとってよい教訓になる。 

 

【大本事件とホーリネス事件】 

 

まさにあの戦前の大本教弾圧(1921年第一次・1935年第二次)ほど、凄まじいものはなかった。しかし、第一次事件を受けて、大本二代教主・出口すみ(王仁三郎の妻)は「これもみな神様のお仕組(計画)。かえって大本教の真実が世間に知れてよい」と語ったという。戦後、新生した大本教、大本から派生した生長の家や世界救世教を生んで日本宗教界に影響を与えた。 

 

また1942年、キリスト教ホーリネス系の教職者が多数逮捕され、ホーリネス系教団が弾圧された。1942年の第一次検挙、1943年4月の第二次検挙を合わせて、日本基督教団に併合されていた第6部(旧日本聖教会)60人、第9部(旧きよめ教会)62人、宗教結社であった東洋宣教会きよめ教会12人、合計124人が逮捕され、教団は解散させられた。しかし、獄中で啓示を受けた蔦田二雄(つただつぎお)牧師は、戦後「インヌマエル教団」を創立し、事実上、ホーリネス系教団は復活した。 

 

いずれも激しい弾圧を受け、解散させられたが、戦後、不死鳥のように甦った。 

 

<大本教団弾圧事件とその教訓>

 

第一次大本弾圧は、1921年(大正10年)2月12日に勃発し、当局は不敬罪と新聞紙法違反の疑いで教団関係各所を捜索、破壊し、出口王仁三郎(1871~1948)と教団幹部を検挙した。京都府亀岡市に本拠を置く大本教が、当時の日本の現状を批判し世直しをとなえていたことに警戒したのである。 

 

次いで1935年(昭和10年)、大本教団への最大の徹底した第二次弾圧が勃発するが、この時点で、大本は支部1990、信者約100万~300万人、3割は大学卒業者という高学歴で、政治家・軍人を含む確固たる宗教勢力に成長していた。 





第二次大本事件では、大本教義の根幹である『大本神諭』と『霊界物語』は発禁にされた。第一次弾圧で発禁となった『大本神諭』は、開祖出口なお(1837~1918)が「艮(うしとら)の金神」からの啓示で始まり、1918年(大正7年)に逝去するまでの約27年間、自動書記により「お筆先」と呼ばれる一連の文章を残した。これを出口王仁三郎が漢字をあてて発表したものが『大本神諭』で、「神のお告げ」による啓示系の教典である。現代文明に対する強烈な批判と、国常立尊(くにのとこたちのみこと)の復活に伴う終末と再生を預言した。王仁三郎は、神託の主である「艮(うしとら)の金神」の正体を古事記や日本書紀で国祖神とされる「国之常立神」(くにのとこたちのかみ)と審神した。 

 

また第二次弾圧で発禁になった『霊界物語』は、1898年(明治31年)3月、王仁三郎が亀岡市の高熊山において行った1週間の霊的修行で神託を受け悟った内容に基づいている。『霊界物語』は全81巻83冊に及ぶ大長編で口述筆記された。『霊界物語』は古事記に基づく日本神話を根底とするが、キリスト教、仏教、儒教、孟子、エマヌエル・スヴェーデンボルグなど、あらゆる思想と宗教観を取り込んでおり、舞台は神界・霊界・現界と全宇宙に及ぶと言われる。 

 

これら両書は大本の二大聖典で、世直しのために、天皇に代わって教祖による神政を目指す意図が隠されていると見なされて弾圧された。事実、1928年(昭和3年)3月3日、満56才の王仁三郎は綾部で「みろく大祭」を挙行、自身が弥勒菩薩・救世主であると宣言した。メディアにより大本と王仁三郎を淫祠邪教の怪物としてセンセーショナルに報道され、検挙されなかった信者達も「反逆者」「非国民」というレッテルを貼られて精神的にも経済的にも追い詰められた。厳しい境遇の中で信者達は隠れキリシタン同然の信仰を守り続けたという。 

 

即ち、1936年(昭和11年)3月13日、内務大臣は大本解散命令を決定し、亀岡の聖地本部はダイナマイトで破壊され、全国の教団施設・建物・碑石類も撤去・破壊された。文字通りバビロニアによるイスラエルの神殿破壊(前586年)を想起させられる。また王仁三郎一家の個人資産、教団の備品、土地といった財産も安価で競売にかけて処分された。開祖・出口なおの墓も移転・縮小された。 

 

また王仁三郎を含め987人が検挙され、318人が検事局送致、61人が起訴された。特別高等警察の激しい拷問で起訴61人中、岩田鳴球ら16人が死亡し、王仁三郎の後継者と目された娘婿・出口日出麿は拷問により精神的異常を呈した。まさに異端審問(魔女狩り)であったが、しかし、こうした厳しい取調べにもかかわらず転向者は少なく、王仁三郎・すみ夫妻のカリスマと人間性が信者達の抵抗を支えたと見られている。 

 

だが第二次大本教事件で、一審では不敬罪違反と治安維持法違反で有罪となったが、控訴審で治安維持法違反は逆転無罪となる。高野綱雄裁判長は判決文の中で、「大本は宇宙観・神観・人生観等理路整然たる教義を持つ宗教である」と記し、検察の調書の信頼性が低いことも判決文で指摘された。あの戦前の空気の中で、国策に反する判決を書いた高野裁判長の矜持は見上げたもので、UCに解散決定を出した鈴木謙也裁判長とは、まさに真逆である。八街の会顧問の中川晴久牧師は、検察当局が事実を歪曲して大本を貶めたのは、文科省が陳述書を捏造してUCを解散決定に追い込んだ過程と瓜二つだと批判した。 

 

二度の弾圧に共通する要因は、当時の当局が実質上の信教の自由を許さなかったことに加え、大本の教義そのものにあった。政府は皇道大本を国家神道体制の枠外にある異端的な存在とみなしており、大本教が「表面的には皇道を標榜しながら、実際に は天皇を廃して王仁三郎を君主とする結社を組織しようとした」ことにあるとされている。大本は新宗教の中でも社会改革への指向が強く、時に大日本帝国の滅亡さえ予言し、それが権力者の不安を呼んだ。1930年初頭の王仁三郎は「昭和神聖会」を結成し、軍部への影響力を格段に強め、陸軍急進派将校や右翼団体と接近しており、当局は異端的な大宗教と極右が結びつくことによるクーデターを警戒した。 

 

さらに、神話の問題があった。明治維新後、政府が天皇崇拝・国家の統制で生まれるパワーに頼って列強諸国への参入を目指す中、大本は国常立尊という日本神話において天照大神(天皇)より上位に立つ神を重要視し、加えて天皇制の基礎をなす古事記・日本書紀を大本神諭・霊界物語と同格に置いており、宗教的な意味においても国家神道との衝突は必然であったと言える。出口なおが唱え王仁三郎が体系化した大本の神話は、国家神道にとって異端そのものであり、天皇と天皇制の権威を覆しかねなかったのである。(Wikipedia)

 

なお、 大本教は神道系の創唱宗教で、天理教や金光教などと共に「習合神道系の新宗教」に分類さる。大本教から派生した宗教には、生長の家、世界救世教、神道天行居(てんこうきょ)、三五(あなない)教などがある。生長の家を創立した谷口雅春は大本の専従活動家で、出口王仁三郎の『霊界物語』の口述筆記を任せられたり、機関紙の編集主幹などを歴任するなど、教団内で嘱望されていた。しかし1922年(大正11年)の第一次大本事件を機に、浅野和三郎と共に大本から脱退した。また世界救世教を創立した岡田茂吉は、元々大本の信者で、心霊学を学び、自動書記を体験し、大本の鎮魂帰神法を熱心に習得していた。こうして、戦前・戦後に大本の流れを汲む新宗教が成立していった。 

 

大本教は、「開祖」出口なおと「聖師」出口王仁三郎を二大教祖とし、祭神には、全宇宙を生み、育てられている根本の唯一の神「大天主太神」(あめのみなかぬしのおおかみ)を奉戴しており( 古事記ではこの神のことを「天之御中主大神」、大本では「大国常立大神」という神名で尊称している)、大本の教理の根幹である「すべての宗教の源が一つである」という考えを基礎とする新宗教が多く生まれた。この大本の神は旧約聖書の唯一創造の神ヤハウェと類似している。 

 

出口王仁三郎は、豪快でスケールが大きく、ユーモアに長けたつかみ所のない大男だと評され、大本の発展は王仁三郎のリーダーシップによるところが大きい。地方民間宗教にすぎなかった教団を国家規模の大宗教に育てたカリスマ的組織者となった。 そして王仁三郎の特徴は、古神道や言霊の知識を活用し、現実社会に大きな影響を与えた点にある。また王仁三郎は「鎮魂帰法」を広めた霊能力者であり、時代に対する予知と警告に関しては突出した力を発揮した。彼は「言霊学」の権威であり、言霊を利用して度々予言を行った。ちなみに言霊学とは言葉に宿る霊的な力を研究する学問である。 

 

大本は、出口なお、王仁三郎、妻すみの関係を「扇」に喩え、なおは骨、王仁三郎は紙、すみは要と定義した。王仁三郎の根底には「神に選ばれた使命感」があり、民族を越えた万教同根の理想を実現するためさまざまな勢力を利用したと評されている。 

 

機関誌『神聖』1935年(昭和10年)9月号で「余は、世間から誤解を受けることが必ずしも不利益であると思って居ない。かかる誤解から轟々たる非難の声が起って騒ぎ立てる世の中をジット眺め、静かにその行末を見守ることもまた面白いではないか」と楽天的に述べている。王仁三郎は今度の事件は「神様の摂理」だとも語り、こうして大弾圧の中にあっても堂々とし、信仰と教義において一歩も譲らない教主夫婦の姿勢は見上げたものであり、同じ大試練の中にあるUCにとって、よい教訓になる。なお、戦後、無罪確定後、大本の弁護団は「政府に対して賠償請求するべきである」と王仁三郎に進言したが、しかし、「国民の血税に負うことは忍びない」とし、賠償を請求しなかったという。 

 

<ホーリネス系教団弾圧とその教訓>

 

さて日本の歴史において、キリスト教の迫害・弾圧は過去二回あった。1587年豊臣秀吉のバテレン追放令、1614年の徳川幕府のキリシタン禁教令によって、以後、1873年に明治政府が禁教令を廃止する迄の約260年間に、多くの殉教者を出すことになった。特に島原の乱(1637年)以降のキリシタンの取り締まりは徹底し、宣教師や信徒キリシタンは棄教するか、殉教するか、潜伏キリシタンとして身を潜めるかの択一を迫られた。 

 

そして二回目のキリスト教弾圧は、第二次世界大戦中にホーリネス系の教会が政府から弾圧された「ホーリネス弾圧事件」であり、日本のキリスト教史上、プロテスタント教会に対する最大の迫害であった。再臨による千年王国説を標榜し、天皇統治の廃止や国体を否定する教義であると見なされたからである。 

 

1942年6月26日、ホーリネス系の教職者が治安維持法違反で検挙された。前述の通り、先ず教職者96名が逮捕され(第一次検挙)、1943年4月に第二次検挙が行われた。逮捕者は合計すると、当時日本基督教団に併合されていた「第6部 日本聖教会」から60人、「第9部  きよめ教会」から62人、宗教結社であった「東洋宣教会きよめ教会」から12人、合計124人であった。(Wikipedia)

 

検挙者のうちの81人が起訴され、車田秋次、蔦田二雄、米田豊ら19人が実刑判決を受けた。全員が上告して、戦後免訴扱いになったが、最終的に獄死者3人、保釈後死亡者4人であった。そして、日本基督教団内のホーリネス系の教会(日本聖教会・きよめ教会・東洋宣教会きよめ教会)は強制的に解散させられた。 

 

これを受けて 日本基督教団の幹部らは、当局のホーリネス検挙を、「熱狂的で気違いじみている信仰のため、むしろ教団全体にとり幸いであった」と述べ、富田満統理は「ホーリネスの学的程度が低いからだ」と言ったという。しかし、戦後(1984年)、日本基督教団は、当時の誤りを認めて、ホーリネス関係者とその家族を教団総会に招いて公式に謝罪した。 

 

ホーリネス系教団は治安維持法違反で解散の憂き目にあったが、1925(大正14)年制定の治安維持法は、本来共産党への対策であり、全7箇条であった。しかし、1941(昭和16)年には、それが65箇条のものに改正されたのである。改正第7条には「国体を否定し、または神宮もしくは皇室の尊厳を冒涜すべき事項を流布することを目的として結社を組織したる者・役員・指導者、無期又は四年以上の懲役、加入者・目的遂行者は一年以上の有期懲役」とある。 

 

特高によるホーリネス信仰の評価である 「宗教関係犯罪の検挙取締状況」によれば、「我国体を否定し、神宮の尊厳を冒涜すべき内容の教理を信奉宣布し来れる不穏結社」とされている。 

 

以上がホーリネス弾圧事件の顛末である。 

 

前記の通り、ホーリネス系三派は、権力により強制的に解散させられた。しかし獄中で神が蔦田二雄(つただつぎお、1906~1971)牧師に働かれ、戦後、より洗練された「インマヌエル綜合伝道団」として甦り、福音派の中核を担うまでになったのである。インマヌエル綜合伝道団は、今や全国115の教会を擁し、1959年、日本宣教百年記念聖書信仰運動の中で、中心的な役割を果たした。「聖書は誤りなき神のことば」との標語のもとに、全国に「聖書信仰」を推進する運動を展開し、また「日本福音同盟」の結成のために尽力した。 

 

即ち、蔦田二雄牧師は獄中で「すべてが奪われても、神の臨在と同行、即ちインヌマエル(神共にあり)が奪われることはない」との霊的体験(啓示)によって、戦後「インヌマエル教団」を創立した。同様にUCとその信徒は、「たとえ全てを失ったとしても、神の言葉(原理)という究極的真理が失われることはない」と確信している。この神の言葉という最大の財産がある限り、その種は必ず芽を出すからである。ピリピ書3章8節に、「わたしは、キリストのゆえにすべてを失ったが、それは、わたしがキリスト(真理)を得るためである」とある通りである。(参照→徒然日誌 令和6年3月27日  インマヌエル教会を訪問して)。ただ、岩本龍弘牧師によれば、ホーリネス系牧師がUCを異端視し、拉致監禁に加担しているというので、これは気にかかる。 

 

以上、大本弾圧事件とホーリネス教系教団弾圧事件は、UCにおいてよき教訓であり、示唆に富む道しるべとして深く心に留めておきたいものである。筆者は、4月4日の「X」で、「大本教団は大弾圧を受けて解散させられたが、教主出口すみは、『これもみな神様のご計画、大本の真実が世間に知れる』と喜んだ。 ホーリネス系教団は弾圧で解散させられたが、蔦田二雄は獄中で啓示を受け、戦後『インヌマエル教団』を創立し、ホーリネス教団は復活した。統一もまた然り」とポストした。 

 

【新しい道】 

 

筆者には、この解散決定が、バビロニアによる「神殿破壊」(前586年)や、マカベヤ戦争(前166年~前142年)の発端となったセレウコス朝シリアのアンティオコス4世の「神殿冒涜」に見える。 

 

アンティオコスは自ら「現人神」と称してギリシアのゼウス信仰を強要し、エルサレムのユダヤ教の神殿を「ゼウス神殿」と呼ばせ、違反者を死刑にすると命じた。ユダヤ人が最も神聖視する神殿に異教徒の神を祭り、これを拝むことを命じたのである。さすがにこれを受け入れることは出来ず、セレウコス朝シリアからの独立戦争が勃発した。内部に内紛があったものの、24年に渡るマカベヤ戦争の後、ユダ・マカベウスの指導で自由を獲得し、「ユダヤ教国家ハスモン朝」(ハスモン王国)が成立し、神殿が回復された。 

 

即ち、ユダ・マカベウスとその兄弟は、長く激しい戦いの末、セレウコス朝の軍隊を破り、前165年12月25日、エルサレム神殿からヘレニズム的な司祭を追放し、異教の祭壇を撤去することで神殿を清め、再びヤハウェ神を奉戴し礼拝を行った。この出来事を今も記念するのが「ハヌカー」(光の祭)と呼ばれるユダヤ教の祭である。ちなみにこのユダ・マカベウスの戦いを曲にしたのが、有名なヘンデルの作「マカベウスのユダ」(見よ、勇者は帰りぬ)である。 

 

神が刻印したUC(世界平和統一家庭連合)を、国家が潰すという行為は、バビロニアによって神殿を破壊されたバビロン捕囚とだぶって見え、エルサレムの聖なる神殿に異教の神を祭るというに等しい。すくなくとも筆者にはそう見える。 しかし、クロス王によってバビロン捕囚から解放されて神殿を再建したように、またユダヤ人が神殿を浄めるハヌカ-の祭りを祝ったように、UCは必ず甦る。それは既に見てきたように、大本やホーリネス系教団の復活を見ても明らかであり、神は試練と共に、それから逃れる道を用意して下さる神である。 

 

「神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、のがれる道も備えて下さるのである」(1コリント10.13)    

 

神よ、沈黙しないで下さい。黙していないでください!  然り、成約版「ハヌカ-の祭り」を挙行しようではないか。(了)

 

                          牧師・宣教師.   吉田宏

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