◎聖書こばなし(1)ーLGBT禁止聖句
以下は、同性愛などLGBTを禁じた聖書の箇所である。
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ』」(創世記1章27節~28節)
「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」(創世記2章24節)
「しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。それゆえに、人はその父母を離れ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である」(マルコ書10章6節~9節)
「あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである。あなたは獣と交わり、これによって身を汚してはならない。これは道にはずれたことである」(レビ記18章22節~23節)
「女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう」(レビ記20章13節)
「女は男の着物を着てはならない。また男は女の着物を着てはならない。あなたの神、主はそのような事をする者を忌みきらわれるからである」(申命記22章5節)
「それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである」(パウロ書1章26節~27節)
「不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者は、いずれも神の国をつぐことはないのである」(1コリント6章9節~10節)
「ダビデとヨナタン」(1サムエル18.1、2サムエル1.26)、「ルツとナオミ」(ルツ記1.16)、「百人隊長と僕」(マタイ8.6)、は同性愛だという牧師がいる。しかし、それはとんでもない妄想。同性愛ではない。
以上
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◎聖書こばなし(2)ー受難週とは
「四旬節」(しじゅんせつ)とは、イエス・キリストの復活を祝う「復活の主日(復活祭、イースター)」までの40日間をいう。
「受難週」(Passion Week)とは、棕櫚(しゅろ)の日曜日からイエスの復活前日の土曜日までの復活祭前の一週間をさす。本年は3月24日~30日。とくに直前の3日間を「過越の聖なる3日間」と呼び、最後の晩餐を想起する「聖木曜日」、主の受難を想起する「聖金曜日」、主の死を想起し沈黙のうちに過ごす「聖土曜日」からなっている。
「受難週とキリストの足取り」
受難週は教会では、キリストのこの地上での最後の一週間の歩みに心を馳せて、主の十字架の御苦しみを思いながら過ごすのが一般的である。
①日曜日:エルサレム入場、棕櫚の日曜日(Palm Sunday)
イエスがエルサレムに入られたときに、人々が棕櫚の葉を敷いて、ロバの子に乗ったイエスを迎えたことからこの名前が付けられた。 (マタイ21.1~11)
②月曜日:宮きよめ、エルサレム入場
イエスは神殿の境内に入りそこで売り買いしていた商人を追い出され、神殿が祈りの家であることを宣言された。(マタイ21.12~17 )
③火曜日:多忙な御奉仕
様々な譬え、最も大切な戒め、偽善な律法学者パリサイ人よ、終末の話し、しるしと奇跡、神の愛に燃えて、エルサレムの退廃ぶりを嘆かれた、(マタイ21.18~26.5 )。
④水曜日:ベタニアで香油を注がれる
イエスがベタニアのシモンの家で食事をしていたとき、マリヤがナルドの香油をイエスの頭に注ぎかけた。これはマリヤの心からの献げものである
と共にイエスの埋葬の準備であった。(マタイ26.6~13 )
⑤木曜日:主の晩餐
イエスは弟子達の足を洗われた後、二階座敷で御自分の死を予告されて、聖餐式を制定された。この後イエスは、ゲッセマネで祈りの格闘をされた後、
ユダの裏切りによって当局者に捕らえられることとなる。(マタイ26.17~75 )
⑥金曜日:十字架の受難日(Good Friday)
イエスは鞭打たれ、人々から嘲られて、カルバリの十字架への道を重い十字架を背負って歩く。そして祭司長、律法学者達の手によって十字架に掛けられる。人類の贖いが完成して、神殿の幕が真っ二つに裂ける。(マタイ27.1~61 )
⑦土曜日:墓の中、番兵墓を見張る
金曜日の夜イエスは墓に葬られた。当局者はイエスの死体が盗まれないように、墓の石に封印をして番兵に命がけの番をさせる。(マタイ27.62~66)
日曜日 はキリストの復活。イースター復活礼拝(マタイ28)
以上
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◎聖書こばなし(3)ーキリストの復活
本日3月31日(日)は、今年度のイエス・キリストの復活祭(イースター)であり、キリスト教では一番重要な日とされ、特にカトリックでは荘厳な礼拝が行われる。復活祭の早朝、キリストは復活され、キリスト教の起源になったのである。まさにキリストと共に古い自分が死んで、キリストと共に新しい自分として甦る日である。このキリストの復活を体験して、弱かった弟子たちは死をも恐れぬ信仰者に変貌した。以下は、イエスの(霊的)復活の事実を記した聖書箇所である。
▪️マタイ書
週の初めの日(日曜)の明け方、マグダラのマリアたちら婦人に、イエスは蘇って「おはよう」と言われ、「弟子たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこで私に会う」と言われた。(マタイ28.9~10)
11人の弟子はガリラヤに行き、イエスが指示された山に登って、イエスに会った。(マタイ28.16~17)
▪️マルコ書
イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。(マルコ16.9)
二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。(マルコ16.12)
その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。(マルコ16.14)
主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。(マルコ16.19)
▪️ルカ書
この日、ふたりの弟子が、エマオという村へ行きながら、互に語り合っていた。一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。(ルカ24.13~31)
そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。(ルカ24.33~34)
イエスが彼らの中にお立ちになった。そして「やすかれ」と言われた。彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。(ルカ36~43)
それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。祝福しておられるうちに、彼らを離れて、天にあげられた。(ルカ24.50~51)
▪️ヨハネ書
イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから」(ヨハネ20.16~17)
その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。(ヨハネ20.19~20)
八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ20.26~27)
そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。(ヨハネ21.1~14)
▪️1コリント
すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。(1コリント15.4~8)
以上
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◎聖書こばなし(4)ーイースターの由来と様相
▪️ところでキリスト教の三大祭りはクリスマス(降誕祭)、イースター(復活祭)、ペンテコステ(聖霊降臨祭)である。そしてクリスマス、ハロウィン、イースターは「三大イベント」と言えるでしょう。
イースターの日は「春分の日の後の、最初の満月の次の日曜日」ということとなっており、その段で言えば、今年のイースターは3月31日なのである。もともとイースターという名前の由来は、ゲルマン神話の春の女神「イシュタル Estore」からきていて、本来イースターは異教徒の祭りだったという説がある。
クリスマスツリーがクリスマスのシンボル、かぼちゃがハロウィンのシンボルであるように、イースターにもシンボルがあり、それが、「イースターエッグ」と「イースターバニー」である。エッグ(卵)は生命のはじまりの象徴であり、殻のなかにいる時間を経て、殻を割って生まれてくる様子が、キリストの復活を象徴していることからシンボルとなっており、またバニー(ウサギ)が多産であることから、豊穣や繁栄のシンボルとされているという。
▪️聖書的にはレビ記にユダヤの「過越しの祭り」(レビ23.5)の規定があり、これが本来のイースターの日にちであるという考え方がある。ちなみにユダヤ教には7つの祭りがある。即ち春の祭りとして、過超しの祭り・除酵祭(種なしパンの祭り)・初穂の祭り・七周の祭り(ペンテコステ)、秋の祭として、ラッパの祭り・贖罪の祭り(ヨム・キプール)・仮庵の祭りである。その中で、過超しの祭り、7週の祭り、仮庵の祭りがユダヤ三大祭りと言われている。
「過越の祭り」(ペサハ)は、エジプトからの脱出を記念するイスラエルの四つある春の例祭の中で最初にやって来る最も重要な祭で、その起源は出エジプト記12章にある。この行事は、ユダヤ暦の7月15日に始まり、この日は太陽暦では4月5日から13日の間のいずれかの日にあたる。しかしカトリックにはユダヤ教の影を極力廃する思惑があり、イースターの日にちをカトリック流に変えたという。
だがイースターの日にちが何日であれ、イエスの受難と復活を祝う日という精神と信仰が大切なのであり、日にちに拘ることはない。
▪️レビ記 には春の祭りとして、「過超しの祭り」、「種なしパンの祭り」(除酵祭)、「初穂の祭り」「七周の祭り」の規定があるが(レビ記23.4~15)、この初穂こそがイエスの復活であると考えられている。神はキリストを死者の中からよみがえらせ、彼を全人類の初穂とされた。
「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」(1コリント15.20)
そしてこの「初穂の祭り」の日を基準にして7週を数え、50日目に次の大きな祭りである「七週の祭り」(ペンテコステ)が始まる。これはイエス・キリストが復活された日の50日目(五旬節・ペンテコステ)に弟子たちが、聖霊を受けた(使徒2.1~4)ことと一致する。
以上
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◎聖書こばなし(5)ー霊魂の起源
▪️私たちの肉体に対比される「霊魂」(=霊人体)は、どのようにして生まれるのだろうか。創世記2章7節に「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた」とあるが、これが霊魂である。では、その後の人間の霊魂はどこから来るのだろうか。これはキリスト教神学の大きな論点である。
▪️キリスト教神学では次の3つの説が挙げられている。梅本憲二著『やさしいキリスト教神学』(光言社P67~68)によれば次の通りである。
①霊魂先在説
神が天地を創造されたとき、その後に生まれてくる個々の人間の霊魂も、同時に創造した。その霊魂が人間が生まれるとき肉体と結合する。→しかしこの説は違和感があり聖書的根拠がない。
②霊魂創造説
人間は生まれるとき、肉体だけが親から子へと受け継がれ、各人の霊魂はそのつど神により創造される。従って各人の罪(原罪)は肉体を通して受け継がれる。→しかしこの説では罪を物質的に見られる恐れがある。
③霊魂伝承説
肉体も霊魂も親から受け継ぐ。→この説では、霊魂が生物学的に見られる恐れがある。
以上の通り、各説には難点があり、今日までのキリスト教神学では定説がないのが現状である。
▪️では、文鮮明先生はどのように言われているだろうか。史吉子著『原理に関するみ言の証』には次の通り記されている。(P100)
「母親の腹の中にいる胎児の時から霊人体の種がすでにできている。その霊人体の種はいつ芽が出るかというと、胎児が母親の腹から出てきて、最初の呼吸で空気を吸うようになると、その時から成長が始まる。霊人体の種が空気に触れると、その時から芽が出て成長が始まるのである」
このみ言は、罪(原罪)が親から血統を通じ、遺伝的に受け継がれるという原理観と一致している。
以上
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◎聖書こばなし(6)ー民族の記憶ー過超しの祭り
旧約聖書には、ユダヤ人の祭りとして4つの春の祭りと秋の3つの祭りが登場する。 そのうち、ユダヤ教の三大祭りとされるのが「過越の祭り」、「7週の祭り」、「仮庵の祭り」である。
「過越の祭り」(出エジプト記12.21~24)は、イスラエル人が奴隷から解放され、エジプトを脱出したことを記念する春の祭りであり、「仮庵の祭り」(レビ記23.34~43)とは、野外に仮小屋を設けて起居して、祖先がエジプト脱出後、40年間荒野をさ迷った生活を想起する秋の祭りである。
そうしてキリスト教の「受難週」(マタイ21章~27章)はイースターに向かう一週間で、イエスがエルサレムに入場され、十字架に架けられて復活するまでを同参し同苦する。
こうして、ユダヤ教、キリスト教では、かっての受難と解放を忍び想起するのである。
では、UCにおける受難週と復活は何であろうか。それこそ文鮮明先生の興南監獄(1948年6月21日~50年10月14日)の受難であり、国連軍によって解放された1950年10月14日に他ならない。この日、十字架を生きて超えられ、霊肉の復活を遂げられたのであり、私たちはこの日を覚えて聖としたい。そして更に、私たち自身の過超しの日、仮庵の日、即ち、受難週と復活を想起して励みにしたいと思うのである。
以上
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◎聖書こばなし(7)ー青春とは心の若さである
▪️先だって聖書セミナーの中で、「信仰者の特権とは何か」を問題提起した。信仰者の特権とは「歳を取らない」ことである。何故なら、信仰者には絶えず永遠への憧憬と回帰があるからであり、「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道者の書3.11)とある通りである。
▪️韓鶴子著『平和の母』(光言社)の中に、次のような一節がある。
「サミュエル・ウルマンの『青春』は、私の好きな詩の一つです。中でも、『青春とは人生のある時期を意味するのではなく、心の姿勢を意味する』という句が好きです。青春とは、必ずしも若い時代だけを意味するのではありません。胸踊る思いさえあれば、年齢を問わず、誰でも青春のように若々しく生きることができるのです」(『平和の母』P255)
ウルマンはユダヤ系アメリカ人。詩集『青春とは心の若さである』はウルマン80才のときの作品で、下記はその一節である。
青春とは人生のある期間ではなく、
心の持ち方を言う。
たくましい意思、豊かな想像力、
燃える情熱をさす。
年を重ねただけでは人は老いない。
理想を失うとき初めて老いる。
▪️敬虔なユダヤ教徒であるウルマンは、その苦難の運命に翻弄されたイスラエルについても、それを詩にしたためた(抜粋) 。
夢にカーテンが上がり
シオンの頂に建てられた大きな館が現れる
平和の蒼穹(そうきゅう)に織りなされ
律法と愛の黄金の言葉から
真実を学ぶためにその館から行く者の夢を見た
「律法はシオンから、神の言葉はエルサレムから」(イザヤ2.3)
トランペットの音ひびき渡り
世界は救われん
人類のために一神教とイエス・キリストを生み落としたイスラエルは、今もなお、イランとハマスに苦しみながらも、アブラハムに約束された神の言葉「わたしはこの地をあなたの子孫に与える」(創世記15.18)を忘れず、そして「あなたは祝福の基となる」(創世記12.3)を信じている。
以上
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◎聖書こばなし(8)ー回心の一句
▪️聖書の一句、み言のワンフレーズ、啓示の一言で人生が変わり、回心に導かれた人々がいる。下記は、著名なキリスト教徒の回心聖句である。
・アウグスチヌスの回心聖句
「肉の欲を満たすことに心を向けてはいけない。宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか」(ロマ書13.13~14)
・ルターの回心聖句
「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」(ロマ書1.17)
・チャールズ・フィニーの回心聖句
「もしあなが一心にわたしを尋ね求めるならば、 わたしはあなたがたに会う」(エレミヤ書29.12)
・マザーテレサの回心聖句
「私の兄弟であるこの最も小さいものにしたのは、私(イエス)にしてくれたことなのである」(マタイ25.40)
・新島襄の回心聖句
「はじめに神は天と地を創造された」(創世記1.1)
▪️次は、偉人を回心に導いた啓示・言葉である。
・パウロの回心の啓示
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」(使徒行伝9.4)
・ナイチンゲールの回心の啓示
「我に仕えよ」(生涯4回の啓示)
・ジョン・ウエスレーの回心の言葉
「キリストを信じる信仰を通じて神が内在して働いて下さる」(ルターロマ書序文)
・ジャック・コルソンの回心の言葉
「世界中の人間がだれ一人として免れることのない一つの悪徳がある。それは傲慢、うぬぼれ、プライドである。それは完全に反キリスト的なものである」(C・S・ルイス著『キリスト教の精髄』の一節)
・内村鑑三の回心の言葉
「汝、自ら義たらんとするなかれ。ただ、十字架のイエスを仰ぎ見よ」(アマースト大学シーリー学長)
▪️ちなみに私吉田の回心聖句は次の通り。どん底で神の言葉と出会って復活した。
「キリストの故にわたしはすべてを失ったが、それは、わたしがキリストを得るためである」(ピリピ書3.8)
但し、上記は聖書の一句での回心だが、真の父母様のみ言なら、もっと覚醒的かも知れない。果たして皆さんの回心のワンフレーズは如何に!
以上
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◎聖書こばなし(9)ーイスラエルの残れる者
▪️「イスラエルの残れる者」(英/レムナント)とは何だろうか。「イスラエルの残れる者」とは、イスラエル民族の過酷な試練の中にあっても、真の信仰を貫いた少数の人たちのことである。
不信に流れる民の中にあっても、神の民の霊的な核として、新しい神の民を形成する者となる「残りの者」がいたのだ。「霊的イスラエル」とも呼ばれるこのフレーズは、エレミヤ書、イザヤ書など旧約聖書に66回出てくる。旧約聖書は捕囚時代前後の「残りの者」(レムナント)によって編集されたのである。
「その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者をアッスリヤ、エジプト、パテロス、エチオピヤ、エラム、シナル、ハマテおよび海沿いの国々からあがなわれる」(イザヤ11.11)
▪️特にこの「残りの者」のフレーズは、エレミヤ書の中で24回使われている。
「わたしの群れの残った者を、追いやったすべての地から集め、再びこれをそのおりに帰らせよう」(エレミヤ23.3)
「主はこう仰せられる、告げ示し、ほめたたえて言え、『主はその民イスラエルの残りの者を救われた』と」(エレミヤ31.7)
▪️神のさばきをくぐり抜けて、神の民の霊的な核として、新しい神の民を形成する者となる「残りの者」はイザヤ書でも特愛用語となっている。
「その日にはイスラエルの残りの者と、ヤコブの家の生き残った者とは、もはや自分たちを撃った者にたよらず、真心をもってイスラエルの聖者、主にたより、残りの者、すなわちヤコブの残りの者は大能の神に帰る。あなたの民イスラエルは海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る」(イザヤ10.20~22)
「その日、万軍の主はその民の残った者のために、栄えの冠となり、麗しい冠となられる」(イザヤ28.5)
▪️そしてUC創始者の次の言葉は含蓄のある言葉である。
「神様は終わりの日になれば、人類の前に7年の大患難があるだろうと予告されました。人間の絆がみな壊れていき、信じられない環境にぶつかる時です。その時は、希望が揺れる時であり、私たちが信じている信仰の中心が揺れる時であり、信じて従った指導者が揺れる時です。信じられないような患難の中でも『神様を愛する、神様と共に生きる』と言い得る真の息子、娘を探すために、そのような時が来るというのです」
以上
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◎聖書こばなし(10)ーヴィア・ドロローサ
▪️ ヴィア・ドロローサとは、「悲しみの道」という意味であり、イエス・キリストが十字架を背負って、総督ピラトの官邸から刑場のあるゴルゴダの丘までの道のりを、自らを神に捧げるために死へと向かって歩いたとされている道行きである。毎週金曜日午後3時、信徒らがこの道を木製の十字架を背負って歩き、イエスの痛みに同参する。
▪️約1kmの道に計14箇所にステーション(留)があり、第9留までが路の途中に、残りの5つが聖墳墓教会の中にあり、各留ごとに足を止め、苦難の道を歩んだイエスにまつわる14の場面が回顧される。各留にはそれぞれ固有の礼拝がある。
但し、留の幾つかは福音書の記述にはなく、後代に誕生した伝承に基づいて選定されたものであると言われている。
第1留 -ポンテオ・ピラトが死刑宣告した総督の官邸。ヴィア・ドロローサの始発点である。(マタイ27.11~26)
第2留 -鞭で打たれ、歩き始めた所。鞭打ちの教会がある。(マタイ 27.27~31)
第3留 -最初に倒れた場所。(但し福音書にはイエスが倒れ込む描写はない)
第4留 -悲しむ母マリアと出会った所。(但し福音書では述べられていない)
第5留 -キレネ人シモンがイエスに代わって十字架を担いだ所。(ルカ23.26)
第6留 -ベロニカがイエスの顔を拭いた所。「ベロニカのベール」は後世に語り継がれることになった。(伝承)
第7留 -二度目に倒れた場所。(伝承)
第8留 -イエスが悲しむ婦人たちに語りかける場面。(ルカ 23.27~29)
第9留 -三度目に倒れた所。(但し福音書には記録されていない)
第10留 -衣服を剥ぎ取られる箇所。(マタイ27.35)
第11留 -十字架が立てられ釘打たれる場所。聖墳墓教会内にあるゴルゴタの丘に設置されている。(ルカ23.33)
第12留 -イエスが息を引き取る場面。(マタイ27.45~50)
第13留 -十字架から降ろされる場面。十字架から降ろされるイエスの遺体を両手で受け止めるマリアの悲しみに焦点が当てられている。(但し福音書にはない)
第14留 -墓に葬られた所。第14留はイエスの墓とされる場所にある。但し異論あり。(ヨハネ 19.38~42)
▪️こうして、キリスト教徒は、ヴィア・ドロローサの道行きを同参して、イエス・キリストの痛み、悲しみを共に味あい、思いを馳せるのである。そして、その名によって「罪のゆるしを得させる悔改め」が、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。(ルカ24.47)
心なしかイエスの受難の道は、文鮮明先生の北朝鮮での苦難の路程(1946年5月27日~1950年10月14日)、特に興南刑務所での受難(1948年5月20日~1950年10月14日)に重なるのである。
▪️以下は、福音歌手森祐理(もりゆり)さん案内の「イエス・キリストの生涯をたどる旅」の7本の動画で、6番目がヴィア・ドロローサである。心打たれる必見の動画!。↓
以上