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トクビィル、「民主主義の堕落」を予告する ー自民党総裁選の不毛を嘆く

◯徒然日誌(令和6年9月4日)   トクビィル、「民主主義の堕落」を予告する ー自民党総裁選の不毛を嘆く

 

神を畏れる(知る)ことは知識のはじめ(箴言1.7)

 

新たなインスピレーション

 

ところでこの9月2日、筆者は78才の誕生日を迎えた。しかし正直のところ、この歳まで元気で生きておられるとは思っていなかったのである。何故なら、40才前半に胆石で胆嚢を摘出し、今まで2回の心臓冠動脈手術(心臓カテーテル手術・心臓バイパス手術)をしているからであり、また父は78才で交通事故で死去し、母はやはり78才で脳梗塞で倒れたからである。従って78才は筆者に取って鬼門である。 

 

実はこの8月初頭、筆者は風邪で体調を崩した。いつもなら先手必勝で、風邪の初期症状に「葛根湯」を飲み、門前で治していたのだが、今回は意外と長引いた(医者はコロナかも知れないと言っていた)。その上、風邪が治っても依然として体のだるさが続き、体調は回復せず、一瞬、このまま衰えていくのかと思ったものである。そして体調を崩すと精神的にもダメージを受け、何かをしようとする「意欲」というものが一切なくなった。一瞬、これで打ち止めかなという思いが過ったのである。 

 

そういった精神状態に陥っていた時、ある知人から、体質改善に最良との触れ込みで、大量の「健康サプリメント」が送られてきた。計らずもこのサプリントを手にした瞬間、まだ飲んでもいないのに、なんと筆者の体調は回復したのである。まさに神業というしかなく、筆者の健康を安じての知人の思いが通じたのだろうか。「病は気から」という通り、やはり「病」は霊的なものでもあることがよく分かった。 

 

こうして78才の誕生日を迎えた。そしてこの日の朝、筆者は、思いもかけない神様からの一つの託宣(インスピレーション)を得た。「人生の黄金期」という託宣である。つまり、これからの3年間は筆者に取って人生の黄金期だというのである。アメリカでは筆者と同年齢のトランプが、世界で最も過酷なアメリカ大統領になって、合衆国の再生に挑戦しようとしてしている。これは決して他人事ではない。筆者は体調を崩して諦めかけていた夢に挑戦するべきであり、これこそ神からの希望のメッセージ「人生の黄金期」の意味であると理解した。つまりポジティブシンキング(前向き思考)であり、こうして神は筆者を励まして下さった。 

 

【民主主義の堕落ートクビィルの予告】 

 

さて、最近筆者は国際政治アナリストの伊藤貫氏(71才)の二冊の本、『自滅するアメリカ帝国 日本よ、独立せよ』(文藝春秋)、と『歴史に残る外交三賢人 ビスマルク、タレーラン、ドゴール』(中央公論新社)を読んだ。そして伊藤氏の動画「アメリカ民主主義の堕落と混乱を予告したトクビィル」を視聴した。

 

伊藤氏は、自らを右でも左でも、体制派でも反体制派でもなく、古典的保守主義者(クラシック・コンサーバティブ)と位置付け、また自らを少数派のアウトサイダーとし、人間としては三流人間だと告白した。但し、誰が一流で、誰が超一流かを見分ける能力(直感力)だけはあるとして、国際政治学者では、ハンス・モーゲンソー、ジョージ・ケナン、ケネス・ウォルツ、ジョン・ミアシャイマー、サミュエル・ハンティントンなどの古典主義のリアリスト学派を高く評価した。なお、古典とは歴史的に優れた価値を有すると認められた文化的所産を指し、古代ローマ・ギリシャの思想・哲学が代表的である。 

 

しかし、アメリカを手厳しく批判する国際政治の分析は、一種独特の意外性があり、筆者とは見解の相違があるが一つの考え方としては勉強になる。伊藤氏は、藤井聡氏(京大教授)、、西田昌司氏(参議院議員)ら保守派著名人との対談を数多くこなし、2018年1月に自死した保守の論客西部邁(元東大教授)とも深い親交があった。 

 

そこで今回、伊藤氏の思想と国際政治分析を吟味すると共に、特に、『アメリカの民主主義』という古典を書いたアレクシ・ド・トクヴィル(1805年~1859年)に関する伊藤氏の論評に注目した。トクビィルはアメリカ民主主義の欠陥を鋭く見抜き、民主主義政治は大衆迎合(衆愚政治)になり、国民は自己中心に陥り、政治家の質は低下すると予告した。このトクビィルの180年も前の指摘は、現代日本にもそっくり当てはまって参考になり、特に現下の自民党総裁選挙に見られる劣化した世論と、質の悪い政治現象に端的に言い当てている。 



<伊藤貫の思想と主張>

 

伊藤貫氏(いとう かん、1953年生れ)は、40年近くアメリカ(ワシントン)に在住している国際政治アナリスト・金融アナリスト・政治思想家である。東京大学経済学部を卒業後、アメリカに移住した。姉は政治家の山谷えり子議員である。

 

伊藤氏はバランス・オブ・パワー(勢力均衡)外交、即ち強力な覇権国を牽制して勢力均衡を図ろうという「リアリズム外交」の信奉者である。また彼は古典的自由主義者で、保守派の言論人であるが、日本の「親米保守」「拝米保守」「国粋保守」に対してはかなり批判的であり、勢力均衡の古典的な外交思想の復活を唱えている。思想的には古典主義・正統主義者であり、ギリシア哲学、キリスト教、仏教などの古典思想を高く評価する。 

 

戦後日本の「対米従属政策」、冷戦終了後のアメリカの「世界一極化戦略」、攻撃的な「対露政策や中東政策」を、バランス・オブ・パワー戦略の視点から強く批判している 。また防御的なミニマム・ディテランス( 最小抑止力)核武装理論を支持している。核大国といえども、核抑止力を有した小国を攻撃できないからである。伊藤氏は、アメリカの核抑止力は信用できないと断定し、アメリカの「核の傘の保証」とは、米政府が日本などの同盟国に、「核を持たせないための外交トリック」に他ならないと主張する。従って日本はアメリカから独立して大人の国になるべきだとし、核武装を含む自主防衛の必要性を説く。伊藤氏は著書『自滅するアメリカ帝国』の中で「本書の目的は、冷戦後にアメリカが作成した一極覇権戦略という野心的なグランド・ストラテジー(大戦略)が、何故失敗したのかを論理的に解説し、21世紀の日本には自主的防衛能力が必要であることを説くことにある」(同書P7)と記した。彼は、アメリカの冷戦後の外交・経済・軍事における一極覇権戦略が完全に失敗したことを手厳しく批判したのである。 

 

そしてイスラエルのガザ侵攻もウクライナ戦争も、ハマスやロシアを戦争に駆り立てたアメリカの過剰な覇権主義の結果であり、背後にネオコンなどのいわゆる「ディープステイト」の巧妙な陰謀があると主張する。伊藤氏によれば、ディープステイトとはユダヤ系金融資本・産軍複合体・CIA・ペンタゴン・国務省などの影の政府をいう。しかしこの陰謀論は結果的にハマスのテロとプーチンの国際法違反のウクライナ侵略を正当化することになり、この見解には賛成できない。また伊藤氏は女系および女性天皇を支持しているが、この点も筆者とは意見が異なる。 

 

ところで伊藤氏は、国際政治を正しく分析し理解するためには、3つのレベル(視点)で総合的にものを考え判断しなければならないとした。即ち、①政治・外交・軍事の「ポリシーレベル」、②学派的な「パラダイムレベル」、③哲学・宗教の「フィロソフィーレベル」の3つである。 

 

ポリシーレベルでは、前述の通り、ヨーロッパ、中東、東アジアの3地域において覇権を確立するというアメリカの一極覇権戦略は破綻したとし、多極構造下のバランスオブパワー体制への移行は不可避であるとした。伊藤氏は、「21世紀の国際システムは多極化に向かい、おそらくアメリカ、ヨーロッパ、ロシア、中国、日本、インドの6極になる」とのキッシンジャーの言葉を引用している(『自滅するアメリカ帝国』P177)。 従って日本は真の意味でアメリカから独立し、独立国家として「自らの国は自らで守る」という国家として当然の自主防衛能力を持たなければならないとした。同盟国に自国の安全保障を任せようとする依存主義は根本的に間違いであり、拝米主義やアメリカの猿真似は日本を滅ぼすという。 


またパラダイムレベルとは、端的に言えば、国際政治を理解する場合、どの学派の枠組みを使うかということである(パラダイムとは、基本的な思考パターンのこと)。前述した通り、伊藤氏は国際政治学では「リアリズム学派」のバランスオブパワー論を採用し、軍事面の核戦略では防御的な「ミニマムデタランス理論」(最小限抑止)理論を取り超大国の攻撃的な「カウンターフォース理論」を批判してる。

 

しかし、伊藤氏が最も強調したのは、哲学・宗教のフィロソフィーレベルの視点である。1960年以降のアメリカは、それまでの WASPと呼ばれる二つの価値判断の基準、即ちアングロサクソンのポリティカルカルチャー(政治文化)と、キリスト教プロテスタントの倫理(宗教的道徳観)の衰退が同時に起こったとした。特に知識人におけるキリスト教離れが目立ち、国民の禁欲思想が減退し、享楽・快楽主義・物質主義などの世俗主義が横行した。そして、自己実現・自己充足・自己評価・自己主張と言った「セルフ」(自己)の助長で、国民は自己中心となり、国家としてのアイデンティティー(自己認識・存在証明)が喪失したという。

 

結局、価値判断の基準、道徳的判断の基準が喪失したのであり、これを回復するためには人間にとって不可欠な人生の「意味」(ミーニング)と「目的」(ミッション)を教える哲学的、宗教的思考と道徳観が必要であるという。伊藤氏はそれを古典哲学と古典宗教に求めたのである。伊藤氏はカントを読んだお陰でプラトンなどのギリシャ古典哲学が理解できたとし、キリスト教、仏教、儒教を評価して、2500年前の思想・哲学・宗教は今でも70%以上は正しいとした。 

 

以上が伊藤貫氏の思想と国際政治分析の概略である。 

 

しかし、ここで伊藤氏の「岸信介批判」「UC批判」の間違い(誤解)を糺しておかなければならない。伊藤氏は最近の動画「アメリカと対峙した中川昭一、アメリカに追随せざるを得なかった安部晋三」の中で、岸信介氏と佐藤栄作氏、そしてUC(旧統一教会)や勝共連合を批判した。伊藤氏は、岸氏は戦犯で巣鴨刑務所に拘束されたが、笹川良一氏や児玉誉士夫氏と共にアメリカ側に寝返ったとした。そしてCIAの手先となって国家の機密情報を流し、見返りに無罪を勝ち取り、CIAから数百億円の政治資金を獲得したという。結局、岸、佐藤の両氏は、戦後の日本の政治を、アメリカの従属状態から抜け出せない状況に追い遣ったとした。


そして、UC・勝共連合を腐敗した「反日的犯罪組織」と断定し、この腐敗したUC・勝共連合が日本に進出するのを岸氏は引き入れて援助したという。また岸氏はUC教祖の文鮮明師がアメリカのダンベリー刑務所に拘束されている時、文師は人格者である言って、レーガン大統領に早期釈放の意見書を書き送り、そして見返りにUCから金銭の受領したとした。また山上哲也被告は、UCを擁護する岸氏に恨みを抱き、孫である安部晋三氏を暗殺したという。


しかし、これら伊藤氏のUC・勝共連合批判には何の根拠もエビデンスもなく、一方的な決めつけにしか過ぎない。伊藤氏は、UCのどこが反日なのか、どのように腐敗しているの、何をもって犯罪組織とするのか、についての説明が一切なく、伊藤氏の誤解か、または悪意の歪曲、悪質なプロパガンダというしかない。まさに左翼や反対派の全国弁連の主張と瓜二つである。また岸氏に金銭を渡したという証拠も事実もなく、伊藤氏の妄想であり名誉棄損である。伊藤氏は、UC問題に限らず、岸信介氏への偏見や国際政治の分析においても、妄想が妄想を呼ぶという陰謀論の罠にはまり、客観性を装いながら実は極端な主観主義に陥いるという傾向がある。即ち、伊藤氏の主張は玉石混交であり、注意深く観察し、取捨選択する必要がある。


伊藤氏は長年アメリカでそれなりの恩恵を受けながら、何故ここまでアメリカ政治をこき下ろすのか、特に冷戦後のアメリカを何故完膚なきまでに批判するのか、彼は生粋の反米主義者なのか、あるいは左翼なのか、これらは筆者の最大の疑問だった。しかし彼は、自らに強い影響を与えた良質なアメリカ人がいることを告白した。それがラインホールド・ニーバー、ジョージ・ケナン、ケネス・ウォルツ、サミュエル・ハンティントン、ジョン・ミアシャイマーらであり、彼らは皆古典主義・正統主義者であり国際政治学者としてはリアリズム学派だという。

 

また、伊藤氏が主張するバランスオブパワー理論、即ち世界の多極化を思考する考え方は、政治的リアリズムから生まれたものであるにせよ(伊藤氏は、21世紀の国際構造の多極化は不可避であるという)、人類一家族という神の理想である「One World Under God」の宗教思想と逆行する。国際連盟から国際連合へ、国際連合から世界政府(キリストによる統治)への道筋は、神の救済摂理、復帰歴史の必然であり、超宗教超国家的な神が統治される一極支配の世界こそ、イエス・キリストが唱えた「神の国」ではなかったか。従ってアメリカは、神に選ばれた世界に自由と民主主義を拡散する「丘の上の町」(マタイ5.14)であるとの認識、即ち「マ ニフェスト・ディスティニー」( 明白なる天命) に象徴される建国の精神に立ち返り、覇権主義ではなく「神主義」(ゴディズム)による一極支配なら、むしろ歓迎すべきことだと筆者は考えるのである。 

 

伊藤氏は、「パックス・アメリカーナは終わった」(『自滅するアメリカ帝国』P194)と強調するが、アメリカが甦ることで、真の意味の「パクス・アメリカーナ」(アメリカによる平和)は不可能ではなく、むしろそれは神の意思に叶う。そしてその先にある神の復権による「パクス・ゴディズム」は実現すると固く信じるものである。 

 

しかし、伊藤貫氏はトクビィルの深く洗練された政治思想を高く評価した。この伊藤氏の「トクビィル論」は筆者も納得するところが多々あり、以下、トクビィルの名著『アメリカの民主主義』を叩き台に、トクビィルの民主主義論を概観し、併せて日本の民主主義政治の欠陥について考察することにする。 

 

<トクビィルの民主主義批判と宗教心の復権>

 

トクビィル著『アメリカの民主主義』は、フランス人アレクシ・ド・トクヴィル(1805年~1859年)が、1830年代に見たアメリカの民主制の強さ(長所)と弱さ(短所)について赤裸々に著述した近代民主主義思想の古典である。本書はアメリカという国の真の姿を知るための最高の古典的バイブルであると共に、この中には社会学において人類が今までに到達した最高のものが集約されているという。 アメリカの政治家はその演説で、聖書に次いでトクヴィルの古典から引用して語るという。

 

1831年4月、トクヴィルは裁判所の友人ボーモンと一緒に、アメリカの「刑務所制度の視察」という名目でアメリカに旅立ち、1832年3月、9ヶ月ほどの滞在を終えてフランスに帰国した。この間、刑務所関係だけではなく、アメリカ社会の経済・政治体制を含むあらゆる側面について調査した。 

 

帰国後『アメリカの民主主義』の執筆に取り掛かり、3年後の1935年に第一巻が刊行された。第二巻は1940年に刊行されている。トクビィルは、序文の中で「宗教的ともいうべき畏怖の念を覚えて本書を書いた」と打ち明けている。ちなみに、民主主義(デモクラシー)とは、法律・政策・指導者・国家・その他の主要事業が直接的または間接的に「人民 」によって決定される統治システムで、現代民主主義国家では、人々は選挙権を行使して自らの代行者を選ぶ。 

 

トクヴィルは『アメリカの民主主義』の第1巻の中で、当時のアメリカは近代社会の最先端を突き進む新時代の先駆的役割を担うことになると述べて、アメリカの民主主義を評価した。しかし第2巻では、その先には経済的格差とマスコミによる腐敗した世論と混乱の時代が待ち受けているとも予言し、現代のメディアの台頭と民主主義政治とのいびつな関わり合いをいち早く予想していたのである。彼は民主政治は「多数派の世論による専制政治に向かう」と指摘し、大衆世論の腐敗・混乱に伴う社会の混乱を予告すると共に、それを解決するには宗教者や学識者などいわゆる「知識人」の存在が重要であると考え、特に「宗教心の復活」が必要だと主張した。 

 

トクヴィルの生家はフランス北西部のノルマンディー地方の貴族で、軍人・大地主という由緒ある家柄である。パリ大学で法学学士号を得た後、司法官僚(裁判官)からキャリアをスタートさせ(1827年)、国会議員(1839年)、外務大臣(1848年)を務め、3つの国権(司法・行政・立法)全てに携わった。まさに19世紀フランスを代表する政治家・歴史家・保守主義者である。1848年の社会主義的な二月革命期を描いた『回想録』と『旧体制と大革命』を残し、1859年に肺結核により、54才の生涯を終えた。(Wikipedia)

 

さて伊藤貫氏は、トクビィルの民主主義批判について、以下の5点を指摘した。トクビィルは自由・民主・平等・国民主権という啓蒙思想・進歩思想を受け入れながら、一方では鋭くこれを批判したのである。 

 

トクビィルは、①民主主義を長く続けると、国民が「ものを深く考える姿勢」がなくなると述べた。また、②国民が「個人主義的」になって、公の問題に無気力・無関心になると指摘した。そして、③国民が自分のことしか関心を持たなくなり、「利己的な拝金主義者」が横行するという。つまりキリスト教的人生観、世界観から遠ざかって理性崇拝が蔓延し、「今だけ、金だけ、自分だけ」となるという。 

 

その結果、④人間としての本当の意味の「自由を失う」とした。即ち、世論崇拝による知的画一化、多数派至上主義による専制政治、嫉妬による平等主義の行き過ぎと抑圧が横行するというのである。つまり、政府の過剰な保護名目の「新しい奴隷制度」である。 

 

そしてトクビィルは、⑤このような中にあっては、人間の「価値判断が低劣化」し、学問も芸術も文明の質も低下するという。そして、政治家の質も低下し、ろくな政治家しか出てこなくなると指摘した。世論を信奉し、真理と見なされる多数派世論が一種の宗教となり、高い知性が抑圧されるというのである。「民主主義においては、人々は自分達にふさわしい政府を持つ」とのトクビィルの言葉が心に痛い。 

 

以上のトクビィルの民主主義論は現代民主主義社会にも当てはまるものであり、伊藤氏は、現代社会に見られる「ポリコレ」や「DEI」(多様性・公平性・包括性)の名による悪平等主義が、国民を勤勉だが臆病な家畜の集団にしているという。2400年前、プラトンも「民主主義は価値判断を失い、専制政治の温床になる」と述べたが、それにしても、本書が書かれたのが180年前の昔であり、ここまで正確に現代民主主義の欠陥を洞察できたということは驚きである。 

 

では、このような劣化した民主主義を如何にして是正し改革すればいいのであろうか。 

 

それをトクビィルは「宗教心の復活」にあるという。神と宗教を失った民主主義は、価値判断を失って無秩序になるとし、宗教をあわてて捨てない方がよいとした。トクビィルは、16才までは熱心なクリスチャンだったが、キリスト教教義に懐疑的になり、一時信仰を失った。トクビィルは教義に疑いを持ちながらも、しかし、ヨーロッパ文明の基盤は、歴史的にキリスト教的人間観・世界観であり、これを捨ててはならないと考えたのである。このトクビィルのキリスト教認識は、「宗教のうちに、私はキリスト降誕の奇跡はみとめないが、社会秩序という奇跡をみとめる」とのナポレオンの言葉と符号する。 

 

即ち、神や究極的な真善美の概念を持たない限り、価値判断の基準を持てず、従って神の概念こそ人間にとって最も重要であるという。結局、民主主義の劣化・堕落をくい止めるには、神の復権、神を信じる信仰の復活しかないというのである。まさに「神を畏れる(知る)ことは知識のはじめ」(箴言1.7)とある通りである。そして超越的存在(神)は理性では認識できないが、それは魂(霊魂)と信仰によって認識できるとした。まさに正論である。 

 

1950年~60年代以降のアメリカは、キリスト教的価値観の衰退が始まり、それ以降、特に知識人にとって信仰は笑い物になった。こうして共通の価値基準を失った国民は、まともな議論ができなくなったというのである。古典的価値を重視する伊藤氏は、古くからある宗教をあわてて捨てればろくなことがないといい、トクビィルはこのことを既に180年前から分かっていたという。 

 

トクビィルは宗教と霊魂について、次のような鋭い指摘している。 

 

「ソクラテスとその学派がはっきりともっていた唯一の信仰は、霊魂が肉体の死滅後にも不滅なものとして生き残るということである。この信仰は、プラトン的哲学に崇高な飛躍を与えることになった。霊魂不滅の信条は、むしろ民主主義の時代においてこそ何より重要となっている。宗教の多くは、霊魂不滅を人々に教えるための最も標準的な手段である。

・・・・・・・人間は、もし肉体の死と共に自分のすべてが消滅すると考えるようになると、次第に将来のことを考えようとする習慣そのものを失っていき、そしてその習慣を失うや否や、自分たちの小さな願望を、忍耐なしに直ちに実現しようとする。 

 

つまり彼らは永遠に生きることを断念した途端に、今度はわずか一日しか生きられないかのように行動するようである。・・・一方常にあの世のことを考えている宗教的民族は、将来を目指して永続的に行動する習性をもつため、結果的にしばしばこの世でも偉大な物事を完成させている。これは宗教の偉大な政治的側面である。(『アメリカの民主主義』講談社学術文庫下巻)

 

【劣化する日本の民主主義ー総裁選挙に思う】 

 

さて、今や日本の政局は自民党総裁選挙一色である(9月12日告示→27日投開票)。野党がだらしない日本にあっては、自民党総裁は即総理であるが故に、マスコミと国民の関心は高い。新聞報道によると、派閥のタガが外れたこともあって、次の通り12人もの議員が総裁選挙に名乗りをあげているという。 (以下、敬称略)

 

高市早苗(経済安保相、63才)、小林鷹之(前経済安保相、49才)、青山繁晴(参院議員、72才)、石破茂(元幹事長、67才)、河野太郎(デジタル相、61才)、小泉進次郎(元環境相、43才)、上川陽子(外相、71才)、林芳正(官房長官、63才)、茂木敏充(幹事長、68才)、加藤勝信(元官房長官、68才)、斎藤健(経済産業相、65才)、野田聖子(元総務相、63才)。 

 

しかし、岸信介、中曽根康弘、安倍晋三といった偉大な政治家から見れば、皆小粒でいかにも見劣りがする。高市早苗と青山繁晴を除いては、政治家としての哲学、世界観、歴史観がない。国民を引っ張り、希望を与える「華」がないのである。これも劣化した民主主義の負の部分の所産なのだろうか。心なしか筆者には、世論調査では上位を占める小泉、石破、河野の三人も、底の浅い、もしくは中身ないポピュリストに見える。岸田首相に至っては論外である。これでは、誰が総裁・総理になっても、期待ができず、日本が混乱し衰退していくのは目に見えている。しかし、むしろこれも神のご計画なのだろうか。 

 

前述したように、トクビィルは、民主主義を長く続けると、国民が「ものを深く考える姿勢」がなくなると述べ、また、「利己的な拝金主義」が横行し、キリスト教的な禁欲的な人生観や世界観から遠ざかって、「今だけ、金だけ、自分だけ」となるという。その結果、人間としての本当の意味の「自由を失う」とした。 

 

そして世論崇拝、多数派至上主義が横行し、それに伴い、政治家の質が低下し、世論に忖度するろくな政治家しか出てこなくなる。程度の低い偏向したマスコミによって、洗脳されやすい国民世論という新たな宗教が席捲し、深い分別心と宗教的見識が抑圧されるのである。まさに岸田政権や自民党総裁選挙に如実に見られる、日本の政治の劣化を見事に言い当てている。松下幸之助は、「民主主義国家においては、国民はその程度に応じた政府しかもちえない」と語ったが、まさに民主主義の本質を突いている。 

 

トクビィルは、「霊魂不滅の信条は、民主主義の時代においてこそ何より重要」と述べ、「道徳の支配なくして自由の支配を打ち立てることは出来ない。信仰なくして道徳に根を張らすことは出来ない」と述べた。前記した世論崇拝とそれに伴う政治家の劣化と、これ以上の民主主義の堕落を食い止めるには、伊藤貫氏やトクビィルが指摘しているように、宗教心の復活と神の復権により再生の活路を見出だす以外には道はないと筆者も思う。良質な宗教だけが、劣化した民主主義を克服できるのである。つまり、蘇ったキリスト教による「福音運動のリバイバル」、再臨のみ言による「一億総福音化運動」が是非とも必要である理由がここにある。 

 

以上、伊藤貫氏の目を通した国際政治の分析とその是非を論じ、またトクビィルの民主主義論との対比の中で、現代日本の政治の欠陥を考察した。そして、神と宗教の復権が是非とも必要であることを論証した。(了)    牧師・宣教師  吉田宏

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