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詩篇再考 新約聖書が最も引用した書

◯徒然日誌(令和7年1月15日)  詩篇再考―新約聖書が最も引用した書 

 

主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神。(詩篇90.1~2)

 

今回、旧約聖書の「詩篇」について、改めて取り上げることにした。何故なら、詩篇は新約聖書の中で最も多く引用され(58回)、また最も多くの人々に親しまれ、詠まれてきたからである。 

 

マルティン・ルターはアウグスチヌス修道院に入ったが、その修道院での日課は詩篇を毎日7回朗読することだったという。修道士は定時祈祷で、毎日未明3時から夜9時まで、1日に7回詩篇を唱え、この7回の定時祈祷で詩篇50篇を朗読するという。まさに詩篇漬けの生活であった。詩篇には全ての喜怒哀楽、即ち、賛美、感謝、嘆き、嘆願、憤り、裁きの求め、そして悔い改めが表現されており、ルターの座右の書であったという。 

 

ユダヤ教やキリスト教において詩篇が「朗読」(朗誦)され、ユダヤ教徒は毎日、節に分けて、一週間で一巡りするように朗読する。シナゴーグにおける礼拝では、定められた詩篇が朗読され、カトリック教会やプロテスタントの教会でも、読む箇所を選び、礼拝の中で朗読される。即ち、詩篇は、読むものではなく歌うもの、楽器(笛、琴、竪琴、シンバルなど)に合わせて歌うための歌詞であり、神殿で歌った旧約時代の讃美歌である。 

 

中川健一牧師によれば、孤島にひとりで住む場合、持っていく一冊の本を選ぶとしたら、クリスチャンなら聖書と答え、聖書の中のどの書を選ぶかと聞かれたら、詩篇を選ぶという。 

 

以上が、今回、詩篇を再度取り上げる理由である。私たちは詩篇を通して、神(主)を称え賛美し、こよなく愛する聖書的な霊性を体感することができる。詩篇は、イスラエルのバビロン捕囚後、再建された神殿の礼拝用讃美歌(祈りの文学)として詠まれ、神への賛美が主題であり、また、苦難と嘆願、悔い改めと感謝の信仰告白である。詩篇は、神がアブラハムを選んで祝福を与えたこと、奇跡をもってエジプトの奴隷から解放されたこと、シナイ山で十戒を与えられ律法の民となったこと、異邦人に蹂躙され捕囚の民となったこと等々の中にあって、なお神を称え、神を賛美し、神に祈ったイスラエルの一大抒情詩である。また、詩篇はキリストについての預言の書であるという見解もある(山岸登著『詩篇全篇解説』P3)

 

【詩篇の霊性】 

 

「詩篇」は、ヘブライ語で「テヒリィーム」と呼ばれ、「賛美の歌」という意味で、旧約聖書の中で最も長い巻である。詩篇は一言で言えば、神を称え、神を讚美する詩である。天地を創造し、怒り、許し、愛し、そして涙される共にある神、この聖なる神への限りない讚美こそ、詩篇の真骨頂と言えるのである。 

 

「詩篇」はダビデ以前 (前 11世紀) からマカベア期 (前1世紀) までの長期に及ぶ歌の収集であり,著者は大多数がダビデに帰せられているが,実際には共同体の祭儀のためにエルサレムの祭司やレビ人が作ったものらしい。 詩篇の主流をなすものは神への賛美であるが、嘆願の歌も多い。また「山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」(詩篇90.2)とある通り、創造主としての神の永遠、不変、超越性を称えている。 

 

<内容・構成・著者>

 

詩篇は内容的には、大きく歴史的詩篇、メシア的詩篇、預言的詩篇、悔い改めの詩篇、神の裁きを求める詩篇に分けることができる。ちなみにメシア的詩篇とは、キリストの受難と栄光を歌った歌で、全部で16篇あると言われる。メシア的詩篇とされている詩篇は、2篇、8篇、16篇、22篇、24篇、40篇、41篇、45篇、68篇、69篇、72篇、89篇、91篇、102篇、110篇、118篇の各篇である。特に詩篇22篇はキリストの十字架を預言し、 十字架上のキリストの最後の7つの言葉に関連があると言われる。例えば、「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか」(詩篇22.2)は、マタイ書の「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マタイ27.46)で引用されている。 

 

また詩篇は全5巻(①第1篇から第41篇、②第42篇から第72篇、③第73篇から第89篇、④第90篇から第106篇、⑤第107篇から第150篇)に分けられ、それぞれの巻の終わりは二回の「アーメン」という言葉で結ばれている。これは内容に基づくというより形式的な区分であり、モーセ五書の五部構成と対応させたユダヤ教の学者たちによるものとされている。 

 

著者は、ダビデ73篇、アサフ12篇、コラの子たち10篇、ソロモン2篇、モーセ、エズラフ人エタン、エズラフ人ヘマン1篇、それ以外は無名50篇、となっている。第72篇の末尾に「エッサイの子ダビデの祈りの終り」とあり、ここまでがダビデによる祈りとされる。しかし、前記したように、詩篇は1000年に渡る歌の収集であり、エルサレムの祭司やレビ人が作ったものと言われている。 

 

<礼拝の祈祷文> 

 

詩篇はそれぞれが独立した祈祷文として用いられる。前述したように、ユダヤ教徒は毎日、節に分けて、一週間で一巡りするように朗読する。またシナゴーグにおける礼拝では、定められた詩篇が朗読される。この習慣はキリスト教の諸教派にも継承されていて、カトリック教会、プロテスタントの伝統的な教会では、詩篇の読む所を選び、礼拝の中で交読される場合が多い。 

 

また正教会では、通夜の席における朗読、納棺の後、近親者・知人などが集まり、夜を徹して交互に詩篇を一篇一篇詠むことが行われる。修道院などでは、食事の際、詩篇の朗読が行われる。 

 

<著名な詩篇> 

 

旧約聖書の詩篇で有名なものには、詩篇23篇、詩篇103篇、エジプト・ハレル詩篇、都上りの歌、ハレルヤ詩篇などがある。

 

▪️詩篇23篇 

 

詩篇23篇はユダヤ教とキリスト教の両方で祈りの言葉として最も愛用されている。詩篇23篇1節~3節に「主は私の羊飼い。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくれる」とあり、羊飼いが羊を群れに連れ戻すように、主が私たちを天敵から守ってくれるというのである。また、「死の陰の谷を行くとも、あなたが私と共にいてくださる」(詩篇23.4)との励ましの言葉があり、西洋では葬儀の際に読まれる代表的な聖書箇所である。 

 

▪️詩篇103篇 

 

詩篇103篇はダビデの詩篇と呼ばれ、「主は天に御座を固く据え、主権をもってすべてを統治される」(詩篇103.19)とあるように、創造主に対するダビデの信頼と愛が明示されている。以下には贖いと復活の思想が表明されている。 

 

「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくれる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにして下さる」(詩篇103.3~5)

 

▪️エジプト・ハレル(詩篇113~118)

 

詩篇113篇~118篇は「エジプト・ハレル」(賛美)詩篇として、ユダヤ人たちがエジプトから救い出されたことを祝う歌で、三大祝祭(過越の祭り・五旬節・仮庵の祭り)で、エルサレムの神殿に礼拝に向かうときに、あるいは神殿において歌う歌である。また、イエスが弟子たちとともに過越の食事をし、主の晩餐をしたときにも歌われたと言われている。 

 

「主を賛美せよ、主の御名を賛美せよ」(詩篇113.1)とあり、「主はすべての国を越えて高くいまし、主の栄光は天を越えて輝く。私たちの神、主に並ぶものがあろうか」(詩篇113.4~5)と神を賛美する。 

 

▪️都上りの歌(詩篇120~134)

 

詩篇の「都上りの歌」とは、ユダヤ人がエルサレムの神殿へ巡礼する際に歌われていた詩篇120篇から134篇までの15篇の詩篇である。「都上りの歌」の主な内容としては、次のようなものがある。 

 

120篇では「苦難の中から主を呼ぶと、主は私に答えて下さった」(120.1)と、苦難の中にある様子が描かれている。121篇では「私の助けは天地を造られた主から来る」(120.2)と、苦難からの助けが神から来ると語り、また、125篇でも「私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある」とある。 

 

そして、「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に借り入れる」(詩篇126.5)、「いかに幸いなことか、主を畏れ、主の道に歩む人よ」(詩篇128.1)、「赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬う」(詩篇130.4)、「主はシオンを選び、そこに住むことを定められた。これは永遠に私の憩いの地」(詩篇132.13~14)などの名句が散在している。 

 

▪️ハレルヤ詩篇(詩篇146~150)

 

ハレルヤとは、「主を賛えよ」という意味である。「ハレルヤ、私の魂よ、主を賛美せよ」(詩篇146.1)、「エルサレムよ、主をほめたたえよ、シオンよ、あなたの神を賛美せよ」(詩篇147.12)、「ハレルヤ。聖所で神を賛美せよ。大空の砦で神を賛美せよ」(詩篇150.1)とあるように、まさに神への賛美が詠われている。 

 

なお、一番長い篇は詩篇119、一番短い篇は詩篇117(4行)である。 

 

【ダビデの悔い改めの歌】  


さて、詩篇51篇は「ダビデの悔い改めの歌」として、また詩篇32篇は、神に許された「感謝と喜びの歌」として有名である。これは前にも取り上げた(参照→徒然日誌-令和6年9月18日 詩篇51篇に見るダビデの悔い改め)。ダビデは、預言者ナタンの糾弾を受けて、姦淫と殺人の罪を認め、悔い改めたのである。詩篇51篇は、「神よ、わたしを憐れんで下さい。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(詩篇51.3~4)から始まる。 

 

<ダビデの栄光> 


ダビデ(前1040~前961)はイスラエルの歴史において、最高の王として評価され、卓越した賢い国王として旧約聖書に描かれている。羊飼いエッサイの第8子ダビデは、サムエルによって油を注がれ、その日以降、主の霊はダビデに激しく臨むようになった。ダビデはユダヤ人のヘブライ王国の全盛期の王(在位:前1000~前961頃)としてパレスチナ全域を40年間統治し、エルサレムを都とした。イスラエルの王に即位したダビデは、ペリシテ人やカナン人を征服して都のエルサレムを建設し、繁栄の基礎を築いたのである。 

 

次の聖句はダビデの子孫からメシアが生まれるというメシア預言である。 

 

「わたしはわたしの選んだ者と契約を結び、わたしのしもべダビデに誓った、『わたしはあなたの子孫をとこしえに堅くし、あなたの王座を建てて、よろずよに至らせる』」(イザヤ89.3~4)

 

<姦淫の罪と殺人の罪> 

 

しかし、イスラエルを統一して華麗な成功を修め、またメシアの家系を形成する祝福されたダビデであるが、後半、重大な罪を犯すことになる。家臣ウリヤの妻であるバテシバが水浴びしているのを見て、彼女を見初め、宮中に呼び出し姦淫を犯して妊娠させたのである(2サムエル11.1~5)。 

 

バテシバの夫ウリアはダビデの勇敢な家臣であったが、バテシバとの姦淫と妊娠を隠蔽するため、ダビデはウリアを殺害する。ウリヤをわざと激しい戦いの最前線に出し、彼の後から退いて、彼を討死させたのである。(2サムエル11.15~17)。こうしてダビデは、臣下を自分の欲望の犠牲にして殺人の罪を犯し、律法に違背した。 

 

<預言者ナタンの糾弾とダビデの悔い改め> 

 

このダビデの罪に対して、激しく糾弾したのが預言者ナタンである。神はナタンをダビデのもとに遣わされ、ダビデの姦淫と殺人の罪を厳しく指摘された。そして遂にダビデは預言者ナタンの糾弾を受け入れ、自らが犯した姦淫と殺人の罪を心から悔い改めて告白したのである。 

 

「神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました」(詩篇51.1~4)

 

そして自らが生まれながらに罪(原罪)を背負った罪人であることを告白し、身を浄めて下さるよう神に祈るダビデであった。 

 

「見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう」(詩篇51.5~7)

 

そしてダビデは詩篇32篇で、許された喜びを詩に表した。 

 

「わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、『わたしのとがを主に告白しよう』と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた」(詩篇32.5)

 

「主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。正しき者よ、主によって喜び楽しめ、すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ」(詩篇32.10~11)

 

以上、最悪の罪を犯したダビデが、悔い改めによって神に許され、救われた物語を概観した。私たちは詩篇51篇を通して、悔い改めの力、回心による恵みの大きさを悟らしめられる。また詩篇32篇では贖われることの喜びを実感することができる。こうしてダビデはイスラエルの繁栄を築き、メシアを生む家系として神に認められたのである。 

 

【詩篇の勧め】 

 

詩篇ほど、世界の多くの人々から愛され、貴賤上下を問わず親しまれた詩はない。ルターがこよなく愛し、修道院のシスターは詩篇を丸暗記しているという。詩篇は人々を励まし、霊的インスピレーションを与え、回心に導いた。ダビデは、「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」(詩篇51.17)と告白した。 

 

古来、イスラエルは神をこよなく愛し賛美してきた民族である。イスラエルにとって、神の存在は所与のものとして当然の前提であり、およそ神の存在を疑うようなことはない。先ず、すべては神から始まる神主義である。これがヘレニズム思想との決定的な違いであり、神を賛美し、神を畏れ、神に依り頼むのはヘブライズムの霊的伝統である。詩篇はこれらのヘブライズム思想を、感性において相続する最良の教材であり、未曽有の大艱難の中にある私たち信徒への、またとない励ましである。 

 

あなたは主、神々の神。我が岩、我が砦、我が避けどころ。目を覚まし奮い立って下さい。あなたの恐るべき御業をもって、欺く者を罰し、迫害する者を容赦しないで下さい!(了)

牧師・宣教師.    吉田宏

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