◯徒然日誌(令和6年12月11日) 那須聖著『牢獄の救世主』に見るキリストの要件-何故、文鮮明師はメシアと言えるか
わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。その声はこう言った、「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」(黙示録1.9~11)
前回、松下正寿著『文鮮明-人と思想』について読み解きをし、松下氏のキリスト教的贖罪論に的を絞って論評した。今回は、やはり知識人で国際ジャーナリストの那須聖氏が文鮮明師について書いた本『牢獄の救世主』(善本社)について論評する。と言っても、本の内容を総花的に論じるのではなく、また国際ジャーナリストの視点から見た文鮮明師でもなく、「超心理学」(霊界研究)を学んだ那須氏の最大の関心事である「霊能者文鮮明」という視点から論考することにする。即ち、那須氏から見れば、文師は偉大な宗教家・思想家であり、かつ実業家・慈善事業家であるが、何よりも「霊界を知る(通じる)王者」であるという。
松下氏は聖公会のクリスチャンとして、キリスト教神学と原理神学の特徴と違いを分析し(特に贖罪論)、教理面からUCと文師を論じたのに対して、那須氏はジャーナリストの目と超心理学研究者としての視点からUCと文師を論評した。そして松下、那須両氏とも、文鮮明師がイエス・キリストを越える宗教家であると認識し、また稀代の実業家であったという共通の認識を示した。
【那須聖の来歴と超心理学】
ここで、本書の著者である那須聖氏の略歴と研究テーマについて紹介する。
<那須聖の略歴>
那須聖(なす きよし、1916~ 2017)は、ニューヨーク在住の外交評論家であった。
米国カリフォルニア州に生まれ、東京に移住し、関西学院大学で心理学を専攻した。しかも心理学界で異端視されていた霊を研究対象にする「超心理学」の研究をした。卒業後、航空心理学の研究に従事し、真珠湾奇襲攻撃直後に陸軍に応招された。
戦後、毎日新聞社に入社し、コロンビア大学で国際関係論・国際機構論を専攻した。毎日新聞社では、外信部副部長、ワシントン特派員、ニューヨーク支局長、論説委員を歴任した。
退社後、ニューヨークで外交評論家として新聞、雑誌などに寄稿する傍ら、各地で講演を行った。1976年ころ、UCの主宰で、ニューヨークの在米日本人向けに「時局講演会」を毎月行っていたが、何回か那須聖氏を講師として呼んだといい、UCとはこの頃からの付き合いである。
著書には、「崩れゆく日米関係」青木書房、「米大統領選挙」世界日報社、「ソ連崩壊」太陽企画出版 など多数ある。特筆される著書として、「救世主現る」善本社 、「牢獄の救世主」善本社、「人間の正体と霊界との関わり」光言社、「霊の正体」たま出版、がある。
<那須聖の文鮮明師観>
本書『牢獄の救世主』は、国際ジャーナリストとしての視点から見た文鮮明師と、超心理学研究者から見た文鮮明師の両面がある。那須氏は、国際ジャーナリストとして、アメリカにおける文師の宗教・思想・言論・事業などの多岐に渡る活動の全貌を克明に記し、特に、明らかな冤罪であるダンベリー刑務所収監の顛末を、客観的かつ公正に書いており、さすがに新聞記者として鍛えられた取材力を感じるものがある。那須氏は、脱税という冤罪で文師が入獄した1984年7月20日は、「アメリカにとっては世界史に永遠に特筆される『恥辱の日』として記録されるだろう」(『牢獄の救世主』P112)と明記した。
しかし、筆者が注目したのは、超心理学研究者としての文鮮明師観である。ちなみに超心理学とは、五感を通さずに観念が伝達される現象や、第六感、心霊現象、テレパシー、透視などの「超能力」を研究する学問である。
那須聖著『牢獄の救世主』のはしがきに、次のように記されている。
「世界には霊能力を持って、霊界と交流できる人は少なくない。ところが同じ霊能者でも、能力の程度は人によっていちじるしく異なっている。文鮮明師の霊能力は一般の霊能力者とはかけ離れた、特別な異質なものである。多少とも彼を理解しようと思うものは霊界の存在を認め、霊界のことをかなりよく知っていなければならない」(本書P3、以下、ページ数だけで表記)
また那須氏自身、一般のジャーナリストと違って、霊界との関係という視点から文師を論じることができると自認した。
「筆者は学生時代に心理学(超心理学)を専攻した。そのころ霊媒とか、霊界に多少興味をもった。戦後、興味を失っていたが、文鮮明師と彼の統一原理に接するようになってから、再び霊界に関心をもつようになった。そして昭和57年(1982年)秋、友人の紹介で長崎県のある霊能者を訪ねたとき、図らずも阿修羅王の霊と対決する機会を得た。そこで筆者には、霊界との関係という点からも、文鮮明師を一般のジャーナリストよりもよく理解できるのではないかと思っている」(P4)
では、その那須氏から見た文鮮明師とは、如何なる霊能者だったのだろうか。
那須氏は、霊能力は、判断力とか直感というより、「霊界から送られるシグナルを受ける能力」であるといい、文師は、「細かいことにも気をつかう、一見普通の人間のように見えるが、人間以上のもの、尋常でない第六感や霊的感覚が見られる」(p175)とした。
那須氏は、霊力によって不治の病を治せる霊能者もいるが、多くの場合は低い霊界と相対しているという。ところが、歴史の中には霊界の非常に高いところからくるシグナルを受け得る極めて稀少な秀れた能力をもった予言者がいるという。イエス・キリストもその一人だが、那須氏の見るところ、「文師は一般の霊能者とは質的にかけ離れて優れた霊能力をもった人である」(P176~177)と語った。
例えば高嶋易断に、文師の姓名、生年月日などを知らせたところ、「この人は易断の枠を越える怪物である」といったという。また四柱推命の教師も同じようなことを言ったという。(P175)
また文師は「昨夜、こんな夢を見ただろう」と信者が見た夢を言い当てる。つまり夢解きである。夢とは、その人が眠っているとき、つまり身体的感覚が鈍化しているとき、霊人体の感覚が鋭くなって、「霊界との交流によって起こる現象ではないか」(P196)と那須氏は言う。実は筆者にも夢を言い当てられた体験がある。筆者が韓国の水沢里中央修練院のセミナーに参加していた時、筆者に内在する「深いしこり」を取り除かれるという印象的な夢を見たのだが、明くる朝、文鮮明先生はその夢のことを筆者に指摘された。
更に、文師は「人を見抜く目、時代を読む目が恐ろしく鋭い」と那須氏は言う。那須氏は40年間、国際問題ジャーナリストとして、国際情勢を分析してきた。そしてやっと二、三年先の国際情勢が分かるようになった。ところが文師は「ほとんど新聞や雑誌を読んでいないのに、世界情勢を相当先まで見通している」(P200)と舌を巻いた。1985年8月、「世界平和教授アカデミー」(PWPA)の第2回国際会議(ジュネーブ)で、「5年以内にソ連帝国は崩壊する」と文師は予言・宣布したが、その予告通り、1991年にソ連は崩壊した。
つまり、文師の霊人体は自由に霊界と連絡でき、高い霊界と交流できる能力があるのであり、霊能力において、「文師はイエス・キリストより優れている」(P177)と那須氏は証言した。
文鮮明師は統一原理を掲げて、宗教・思想・文化・科学の統一を主張している。特に宗教一致運動にかけた努力は半端ではなく、「神は一つ、真理は一つ。しかし、そこに行きつく道はいくつもある」との理念のもと、神に関する国際会議を頻繁に開いた。また、本質と現象、精神と物質、原因と結果は本来切り離すことができない統一的関係にあるとの理念と信念のもと、「宗教と科学の統一に関する国際会議」を何度も開いたのである。
そしてこの統一原理は、言語に絶する苦悩と修行と祈りを通して神の心情と一体となり、神が文師に、人類が神のもとに帰るための道を啓示の形で示されたものである。文鮮明師は40日間断食をし、マホメット、釈迦、孔子など聖人、賢者の霊と討論を行い、イエス・キリストとも対話し、いずれも文師の解釈が正しいことを認めて、承認した。さらにルーシェルも認め、遂には神も認めた。(P189~193)
これらのことを総合すると、那須氏は「文鮮明師がイエス・キリストよりはるかに偉大な救世主であるに違いない」(P186)と結論した。
以上が、超心理学研究者としての那須氏の観た文鮮明師である。
【文鮮明師は何故、キリスト(メシア)と言えるか】
さて、以前筆者は「文鮮明先生は何故メシアと言えるか」という問題提起をし、以下の3点を指摘した。
<3点とは>
先ず第1に、何と言っても「聖書とその奥義を解明したこと」である。比喩や象徴で書かれた聖書の奥義をことごとく明らかにした統一原理は、神の啓示として創始者に与えられた。那須氏も「苦悩と修行と祈りを通して、神が文師に啓示の形で示されたものである」(P189)と指摘している。
ある著名神学者は、文師は8つの分野、即ち「神・サタン(罪)・人間・霊界・イエス・聖書・歴史・真の家庭」に精通したチャンピオンだと指摘した(平和神経平和メッセージ13)。しかし、その中でも聖書の奥義を解明し、聖書を完全に解釈したことは特に抜きん出た業績であり、このこと故に、文師はキリストの資格があると言えるというのである。
文師が何故メシアと言えるかの第2の理由は、文師が韓鶴子女史と共に「真の父母」として、完成期的な救いの担い手、即ち完全な霊と肉の両面に渡る贖罪の業をなし、「重生」(新生)の摂理を成就された方であるという事実で、これが救済論的には最も重要な内容である。これらの重生論は、原理講論のキリスト論(P262~266)に解説されいる。この点、松下正寿氏は、文師によって、はじめて贖罪論が理解できたと述懐した。
更に文師がメシアである第3の理由は、共産主義を屈服したことである。ヘレニズム思想の集大成(鬼っ子)ともいうべき共産主義を崩壊に導き、共産主義に代わる神主義に基づく「新しいヘブライズム思想」(頭翼思想)を提示したことである。 文師は、共産主義崩壊に至る背後で、レーガン、ブッシュ、ゴルバチョフなど世界の主だった要人を叱咤激励し、創刊された「ワシントン・タイムズ」を通じて、明確な理念と方向性を示して、共産主義崩壊に決定的な役割を果たしたのである。 那須氏は、この過程で日本の教会・信徒が人的、物的に大きく貢献したと述べている。
<霊界を知るチャンピオン>
以上の通り、創始者がメシアである理由を3点述べたが、今一つ那須聖氏が強調される通り、文師は「霊界を知る(通じる)王者」を挙げることが出来る。
聖書に「終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう」(使徒行伝2.17) とあるが、人間は霊と肉によって創造されているので、高い霊界圏にはいれば「インスピレーション」や「啓示」や「黙示」を受けることができる。また夢や幻で神のみ心を感じることが出来る。
即ち、霊感とは、神が示す霊妙な感応のことで、神が乗り移ったようになる人間の超自然的な感覚、あるいは霊的なものを感じとる心の働きであり、霊感にはインスピレーション・啓示・黙示・役事などがある。 そして霊感は、聖職者や預言者、修行者などの宗教家が、修行や悟りの結果として神仏からの霊感を得る場合、高橋信次や大川隆法、あるいはジャーマンなどのように、もともと生まれつき霊能者として霊感を得る資質を持っている場合、そして一般の人々が時に応じて感じとる霊感がある。
しかし文鮮明師は、那須氏が「文師の霊人体は自由に霊界と連絡でき、高い霊界と交流できる能力があり、霊能力において、文師はイエス・キリストより優れている」(本書P177)と証言したように、まさに文師は、霊界の聖賢やイエス・キリストと自由に交流し、神とも対話できる特別な霊能者であるというのである。文師はまさに「霊界を知る(通じる)王者」であり、これこそメシアたる理由であるというのである。然り、アーメン!
【インスピレーション・啓示・黙示・役事】
おしまいに霊界からの通信における「インスピレーション」「啓示」「黙示」「役事」について言及しておく。
文師は、「神霊とは一時的に配分された霊力や霊的作用をいうのではなく、真の愛を中心として霊界と人間世界が調和、共鳴を起こし得る『神様の愛の力』をいう」(『文鮮明先生御言選集』より)と言われた。つまり、神霊とは「神様の愛の力」であり、天と地、心と体が繋がる原動力であるというのである。 これは、サムソンやダビデに激しく注がれた神の霊でもあり(1サムエル14.19、16.13)、神の霊は、旧約、新約、成約を通して働く、いわば万有原力のような「神の人格的な愛の力の作用」である。これがまさに神霊、即ち神の霊である。
一方、真理とは「神様の愛のみ言」をいう。神の真理は、ある特定の摂理的な人物を通して「啓示として」地上にもたらされるのである。即ち、神霊が「神の愛の力」であるのに対して、真理は「神の愛のみ言」であり、神霊は祈りによって、真理は啓示によって与えられるという。そして神霊と真理の関係は、霊と肉の関係のように、神霊が主体であり真理は相対である。
以上を前提に、神霊と真理との交わりを通して、私たちの心霊と知能が啓発される時、インスピレーション(暗示)から始まり、啓示→黙示→役事というように、段階的に霊的恩寵が深まっていくというのである。
天聖経第七篇「地上生活と霊界」によると、私たちは、心の門(心門)に合わせて心田(霊性)を啓発し、神霊と真理で礼拝していくと、先ず始めに直感・暗示・夢・幻などによって「インスピレーション」を与えられると言われている。 暗示や夢のお告げ、啓示、黙示などがあるのは、天と関係を結ぶために広がる、開拓的で発展的な現象であり、暗示的なこと、例えばある人が語った言葉に、偶然何かを悟ることもあるという(天聖経P777)。
筆者は、世俗的傾向が強い人種であるが、昔から直感力だけは長けていた。この人はこうなるな、あの人はああなるな、といったことが直感で分かり、そしてその如くになっていった。生長の家の谷口雅春総裁は、著書『古事記と日本国の世界的使命』の中で、「日本人はたいへん勝れた直覚的認識を持っていた国民である」(P7)と指摘し、しち難しい哲学はなくとも、何が正しく、何がおかしいかを直感で知る能力があったという。これがインスピレーションである。
インスピレーション(暗示)の段階を経れば、「啓示」を体験する。啓示(revelation)とは、人間の理性を越えたもので神により開示され、天啓または神示ともいわれている。宗教の教祖はそれぞれ啓示を受けた。即ち、啓示は神の言葉に他ならず、神学の源泉となるもので、信仰によって受け取られるものである。啓示によって真理が開示され、それによって信仰が成立する宗教を、「啓示宗教」と呼び、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は典型的な啓示宗教、啓典の民である。
聖書は一貫して、「神はモーセに言われた」(出エジプト6.2)、「その時、主の言葉がサムエルに臨んだ」(1サムエ15.10)、「主はわたしに言われた」(イザヤ8.1)の如く、神からの言葉(啓示)で始まっている。先ず「神の言葉ありき」である。 キリスト教は自らを「啓示宗教」とし、神自身がその行為と言葉において聖書を通じて自身を啓示されているとし、人間は神について啓示の書たる聖書を通して認識することができるという。
そうして、啓示の段階を過ぎれば、次は「黙示」の段階に入る。黙示によって、四六時中霊界の中に入り、「神の生活感情に触れるという体恤的信仰」を体験するという(天聖経P778)。 暗黙のうちに意思を表示す宗教における「黙示」は、おもに神が特別な力で真理や神意を人に示すこと、神が選ばれた預言者に与えたとされる「秘密の暴露」を意味し、アポカリプス(黙示)と呼ばれる。
隠された秘密の啓示は、幻あるいは夢によって与えられることが多く、例えば『ダニエル書』の中に見られるように、ダニエルは夢や幻を見(ダニエル7.1)、三週間の断食の後にチグリス川のほとりに立っていると、天の使い(天使)が彼に顕れ、そのあとに啓示が続いた(ダニエル書 10.2~6)。ヨハネもまた『ヨハネの黙示録』のなかで、「わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた」(黙示録1.9~11)とあり、似たような経験をしている。
次に「役事」があり、霊的な力が電気作用のように入ってきて、啓示、黙示の具体化として、癒しや再臨復活などの役事が始まる(天聖経P778)。病気の癒しや悪霊の追い出しもその一例である。イエス様は、肉身の死後、3日目に霊的な自由の体(復活の体)で復活され、そして「墓で眠っていた」先祖は、子孫に協助して自分たちがやり残したものを代理でやってもらうという「再臨復活現象」 の役事が起こってくる。洗礼ヨハネに再臨復活したと言われるエリアなどはその典型であり、この霊人の再臨現象は往々にして輪廻転生に見えることがあるが、各個体は自己同一性を保っており、輪廻ではない。
以上、神霊と真理の概念、そしてインスピレーション、啓示、黙示、役事について概観した。こうして、インスピレーション→啓示→黙示→役事という流れの中で、あるいは「同時並行的」に、私たちの心霊的背景は順次高められていくことになる。
以上、那須聖著『牢獄の救世主』を読み解くという形で文鮮明師を論じた。前回の松下正寿著『文鮮明-人と思想』とは、前者が超心理学研究者、後者が神学者という違いがあり、其々の立場から独自の文鮮明論を語られたが、文師がイエス・キリストを越える宗教家であるという結論は同じであった。更なる、歴史的、神学的、学術的な「文鮮明論」が出てくることを祈念して、この項を終える。(了) 牧師・宣教師 吉田宏